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「それでは我が国はこの戦いに負けた、ということですか?」 ポーツマス条約が締結され、桂総理は集まった新聞記者達に条約の内容を発表した。 講和条約締結の知らせに戦争が終わったことの喜びが上がった会場だが、条約の内容が発表されるとざわつき の声が大きくなっていった。 「我々政府は負けたとは考えていません。この度の戦争で拿捕したロシア艦艇は戦艦だけでも5隻にのぼります。 それに引き換え我が国はなに一つ失ってはいません。」 大勢の記者を前に桂総理が堂々とした態度でそう言い切った。 「しかし、大韓王国の完全独立を認めるということは朝鮮半島の権益を全て失うということではないのですか?」 桂総理の負けてないという言葉に納得いかない記者が詰め寄る。 「あの国はもともと独立国でした。そして大韓帝国との取り決めで様々な特権を持っていたに過ぎません。」 「それでは、今度出来た大韓王国ともそのような取り決めを出来るとお考えですか?」 「それはこれからの努力次第と考えています。今日の記者会見はここまでとします。」 桂総理はそれだけ言うと、記者達のざわめきを無視して会場を去っていった。 残された記者達はしばらく呆気に取られていたが一斉に自社の目指して走リ出した。 桂内閣は当初、バルチック艦隊を壊滅させ多くの艦艇を拿捕したこと、日本固有の領土は少しも奪われていない ことを強調し、日露戦争には負けていないと発表した。 朝鮮半島における権益に関してはこれからの交渉次第として言い逃れを行ったのだ。 しかし、日本が朝鮮半島に総督府を置き実質上支配していたことは民衆の目から見ても明らかであり、民衆は当然 の如く政府の主張を受け入れず、厳しく戦争結果を非難した。 議会でも激しい非難の声が上がったため桂内閣は当初の発表に加え、この戦争の目的は朝鮮を脅かすロシアを 倒し朝鮮を助けるためだったと宣言し、戦争の目的は達せられたとしてあくまで負けてないことを主張した。 桂内閣のこの主張は強引過ぎる理由であり多くの批判を浴びた。 しかし、明治天皇が対外強攻策反対の立場からこの主張を支持したために表立っての非難はなくなった。 桂内閣の様々な声明にも関わらず、多くの国民は今回の戦争は負けたのだと考えた。 増税に耐え、多くの死傷者を出したにも関わらず得るもののほとんどなかった不満は民衆の間に大きく拡がり、真っ 先に不満の矛先を陸軍に向けた。 民衆の目からしてみれば、海軍が日本海海戦で記録的勝利を収めていたにも関わらず、その後の戦闘で占領地 域のほとんどを失った陸軍のせいで今回の戦争の負けた、としか映らなかったのだ。 実際は、聯合艦隊の撃ち漏らした艦隊による攻撃で多くの輸送船を失い、補給物資が充分に届かなかったことも 敗因の一つであり、陸軍もこれを主張して責任転換を図ったのだが、一般民衆に補給の大切さがはっきりと理解 できるわけもなく、非難は陸軍に集中した。 現実的に見れば、聯合艦隊がバルチック艦隊のほとんどをパーフェクトゲームで撃滅したことは充分に評価できる ことであり、日露戦争全般を通しても連合艦隊は期待以上の戦果をあげている。 このため、諸外国にも聯合艦隊と東郷平八郎の名前は広く知れ渡った。 一方、陸軍も前半は死傷者多く出しながらも(特に旅順攻略戦)占領地を拡大していき、後半は補給物資の停滞で 占領地を奪い返されたものの、朝鮮半島は死守しており、全体では善戦したと評価できる。 陸海軍とも善戦したにも関わらず今回負けたことは純粋に国力の差がでたものであり、その点においては政府、軍 部双方の責任であった。 さらに、日本は勝てなかったとはいえ白人国家であるロシアと極東の有色人種国家が互角に戦ったことは諸外国 にも大きな衝撃を与え、列強とは後の条約改正への道を開き、植民地となっている地域(特にアジア)には希望と 日本への憧れを持たせた。 しかし、そのことの重要性は民衆にはよく理解できず、民衆の間には軍、特に陸軍への不信が拡がっていった。 日露戦争では、22億円、実に当時の国家予算の4倍近いという莫大な戦費が使われたにも関わらず得られるもの が何一つなかったために、終戦直後の日本は極度の財政難に見舞われた。 民衆は度重なる増税により疲労しきっており、増税により財政難の解消が出来るわけでもなく結局桂内閣は敗戦 の責任(桂内閣はこれを認めていない)をとって総辞職した 。 桂内閣に代わって拝命を受けたの西園寺公望である。 西園寺はすぐに組閣に入り、1906年2月、内務大臣に原敬、大蔵大臣に阪谷芳郎、松田正久らを据えた西園寺 内閣を発足させた。 「軍縮を行うだと!」 最初の閣議で、西園寺総理が真っ先に軍縮を行う考えを告げると寺内陸相が怒鳴り声を上げた。 「そうだ。今の我が国の経済状況では戦争によって膨れ上がった現在の軍備を維持できないからな。」 「私も軍縮には賛成です。我が国の経済状況はまさに最悪の状況にあると言っていいでしょう。戦争が終結した今、大 幅な軍縮が不可欠です。」 西園寺総理に続き、大蔵大臣に就任した松田正久が発言する。 「ふざけるな!大陸への進出が阻まれたからこそ再び軍備を整え、再度大陸へと進出すべきではないのか!」 「今の帝国のどこにそんな国力があると言うんだ?今の帝国にあるのは疲労しきった国民と、多額の対外債務だ よ。」 「なんと言われても陸軍が目指すのは大陸進出です!そのためにはせめて平時25個師団は必要と考えます。」 「25個師団だと!そんな無茶な!」 平時25個師団というあまりにも過大な要求に松田蔵相は思わず叫んでいた。 他の閣僚たちも顔を見合わせている。 「寺内君、きみら陸軍は国を破産させるつもりかね?」 「大陸への再進出に向けてはそのくらい必要だということです。それでは逆にお聞きしますが総理はどのくらいまで 陸軍を減らそうというのですか?」 西園寺総理の皮肉に寺内陸相は逆に問いただした。 「そうだな・・・しばらくは国内の守りに専念してもうらわけだし、守るべき範囲も減少した。理想としては10個師団ぐ らいまで減らしたいな。」 「10個師団!それこそ正気の沙汰とは思えませんな。それでは大陸への再進出など夢のまた夢。そのような軍縮 など陸軍は断固として認めるわけにはいきませんな。」 「・・・海軍はどうなのだ?」 寺内陸相の言葉をやりきれないといった表情で聞き流しながら西園寺総理は発言を控えていた斎藤実海相へと 話を向けた。 「・・・軍縮の必要性はわかります。海軍としては軍縮の規模にもよるでしょう。」 話を向けられた斎藤海相は、寺内陸相とは対照的に冷静な口調で答えた。 「ほう、海軍はずいぶんと物分りがいいのだな。だが陸軍は軍縮など決して認められないぞ。」 「ふぅ、このままでは埒があかないな。軍縮に関しては今日はここまでにしよう。寺内君も斎藤君も次までに軍内の 意見をまとめてきてくれ。」 結局、西園寺総理の言葉で、この日は軍縮に関する話は打ち切られた。 結局、軍縮に関して軍部と政府との歩みよりはなかった。 そこで陸軍は、寺内正毅陸相の単独辞任によって西園寺内閣を総辞職させるに至った。 その結果、同年4月、長州閥の実力者である桂太郎が再度組閣、第二次桂内閣が発足した。 しかし、この行動はあまりにも時期が悪かった。 ただでさえ軍部への不信が高まっていた中で、軍縮を行おうとした内閣を陸相の単独辞任で総辞職させたことは 民衆の不満を爆発させた。 「軍部の横暴を許すな!」 「政府は軍縮を断行せよ!」 「戦争に負けた軍など不要だ!」 など、様々なスローガンを掲げた反軍デモが各地で行われた。 このデモは警察だけでは鎮圧できず、とうとう軍隊までもが出動する羽目となった。 結局、軍隊の出動により反軍デモは力ずくで抑えられ運動は徐々に鎮静化していった。 一方この頃、反軍デモと時を同じくして憲政擁護運動が盛り上がりを迎えていた。 陸軍のあまりのも非立憲的な倒閣、藩閥政治家の再登場は国会議員や都市部の知識人、重税に苦しんでいた 商工業者を憤慨させ、「憲政擁護、閥族打破」をスローガンとした憲政擁護運動が巻き起こっのだ。 軍に対する一般民衆の怒り、藩閥に対する知識人の怒り、当初別々の運動として盛り上がった二つの運動であっ たが、藩閥と軍部の癒着が憲政擁護運動の過程で広く一般に知れ渡るようになると、沈静化し始めていた反軍運 動が憲政運動に合流、反軍、護憲を掲げた運動が展開された。 一般民衆と知識人、一部の国会議員らが合同し、松田正久、犬養毅、尾崎行雄らを中心人物として展開されるに 至り、運動は最高潮を迎える。 これに対し桂内閣は勅命をもって抑えようとしたがこれは「勅命を自分勝手に利用している!」とのさらなる批判を 浴びる結果に終わり、運動は留まるところを知らなかった。 結果、桂内閣はわずか50日あまりで倒れた。 そして大命は再び西園寺公望に下された。 最初、西園寺はこの待命を謝辞するつもりでいたが藩閥、軍部完全排除した政党政治を成立させることを国会、 さらには原敬から強く勧められるにいたって拝命を受け、組閣を行った。 第二次西園寺内閣において藩閥出身者の入閣はわずかに二名であり、ここに完全とはいかないものの、政党によ る政党政治が行われることとなった。 政権の座に着いた西園寺内閣は、早速全国で起こっている運動を背景として、国会の圧倒的多数を持って軍部大 臣現役武官制を廃止、軍部大臣の条件を予備役、後備役にまで広げた。 また、念願であった軍縮を断行し、陸軍の要求していた常設20個師団に対し、それを半減、常設を近衛1、八州に 各1、予備兵力1の計10個師団とした。 この結果三八式歩兵銃が制式化されたこともあり三〇式歩兵銃が大量に、さらにその他の装備も多くが余ることと なった。 そして、軍縮の波は海軍にも及ぶこととなった。 当時帝国海軍が所有していた戦艦は三笠、敷島、富士、朝日、香取、鹿島、日露戦争で拿捕して現在修理中のも のが丹後(元ポルタワ)、相模(元ペレスウェート)、周防(元ポビエダ)、肥前(元レトウィザン)、石見(元アリヨール)、 の計11隻であり他にも建造中の物として薩摩、安芸、筑波、生駒、鞍馬の5隻があった。 日本海海戦で勝利したこともあり海軍の軍縮に関しては民衆の間からはあまり大きな声は聴かれることはなかった が、これらの戦艦群は維持するだけでも莫大な金額が掛かることから大蔵相は強硬に海軍戦力の削減を主張、ま た大幅な軍縮を断行された陸軍も「海軍も道連れだ!」と言わんばかりに政府海軍戦力の削減を求めた。 この結果、いくつかの艦艇を処分することになった。 共に装備を持て余すことになった陸、海軍は兵器の売却先を探した結果、清、大韓王国(大韓帝国から改名)に目 をつける。 両国とも日本の隣国であり、清は軍の近代化が遅れていて、列強各国に対抗するために近代化を目指していたこ と、大韓王国は完全独立を果たしたことで早急に軍の整備を行う必要性があったことから装備を欲していると考え られたからである。 事実、清は帝国に対して半日感情を持っていなかったために案外すんなりと兵器の輸出が行われた。 一方の大韓王国は帝国に対し少なからぬ反日感情があったために交渉は難航したが結局他に近代的な装備を調 達する術がないこと、余剰になった装備ということでかなり安く買うことが出来たために兵器の輸入を受け入れた。 結局海軍からは修理が済み次第丹後、相模、周防、肥前、石見の5隻が清に引き渡されることになり、大韓王国へ は即刻富士が、建造中の戦艦が完成するのを待って敷島、朝日の2隻が引き渡されることになった。 一連の軍縮に対して軍内部からかなり不満の声が上がったが、陸軍は大山厳、児弾源太郎(両国と交渉中に脳梗 塞で死去)の両名が、海軍は東郷平八朗が、そして大元帥であられる明治天皇がこの軍縮に賛意を示していたの で取り立てて大きな妨害もなく軍縮は達成された。 この軍縮の結果、帝国陸、海軍は当分の間侵略戦争を行うことを考えることが出来なくなった。 また、兵器、艦船の売却利益や軍縮による国家予算内の軍事費比率の低下により国家財政は一息つく余裕を見せた が一般民衆の生活苦いまだに続いていた。 |
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