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日清の繋がりが深まり、日本に立て直る契機を与えた親清関係は一方の当事者である清にも多大な利益を もたらしていた。 しかし、そのことは清国内の安定には寄与しなかったようだ。 日本との経済提携の効果などから数字の上では順調な発展を遂げていた清であったが、その国内はすでに 混乱しきっていた。 日本との友好関係を築いたおかげで、技術的、社会的にも好影響を受けていた清であったが最大の恩恵を蒙 っているはずの経済面において民衆の不満は高まっていたのだ。 平等条約締結直後は低価格で国民の間に広まり好評を得た日本製品であったが、国力増強を目指していた 清政府は財源を欲しており、そのための手段として日本製品への関税は他国の製品に比べて僅かに安い価 格になるようにまで引き上げた。 このことに関しては、貿易額の減少を恐れた日本政府からも再三の抗議が行われたが清政府は条約を盾に 日本政府の抗議をかわしていた。 日本側としても、日本経済の本格的な復興には清との関係は不可欠であると考えられていたためにあまり強 い態度には出られなかった。 関税を引き上げた清政府は多額とまではいかないものの、かなりの金額を調達することに成功し、大部分を 軍備増強へ、そして一部は権力者の懐に入っていった。 国力増強のためと、当初は我慢していた国民達も自分たちの生活が豊かにならないことに大きな不満を感 じ、一度は落ち着きかけていた革命勢力も再び勢力を拡大していた。 これに最も慌てたのは日本政府であった。いまだに革命勢力を楽観視している清政府に比べ、東京に革命 勢力が多く集まっていることを知っている日本政府は革命勢力の広がりを懸念していたのだ。 清との関係が必要不可欠な日本国内では清の現状に関して二つの意見に分かれていた。 一つは清と協力して革命勢力をつぶしよりいっそうの協力体制を得ようとするものであり、もう一方は、革命 は最早時間の問題でありそれならば今のうちから革命勢力と接近し、革命成功後の清において新たな協力 体制を敷こうというものであった。 日本政府内部でも革命勢力との接近を主張する勢力があったが、隣国の民主主義を求める革命に協力する ことは日本国内での革命を招く恐れがあるとして、基本的には清を助けていく方向で一致した。 しかしながら革命が成功したときのことを考えて革命派に対して露骨な妨害をすることはなかった。 依然革命勢力を楽観視しているとはいえ、清政府も国内改革のため立憲への道を模索していた。 去る1905年には海外の政治体制を学ばせるため五大臣を海外に派遣、翌1906年には立憲四大方針を 発表し、一部憲法の草案まで作成されていた。 しかしながら、政府内で絶大な権力を誇っている西太后への配慮を欠かすことが出来ず、立憲の開始は早 くとも10年後とされていた。既に西太后が70歳を超える高齢であることを考えると実質的には、立憲の開始 は西太后の死去後ということになる。 また、立憲制度もほぼ日本の物を襲踏するものであり、具体的に清にあった制度を考え出す努力などは見 られなかった。 清政府はさらに、立憲までの時間稼ぎと民衆の不満をそらす手段として行政改革も行っていた。 漢民族が9割を超えるにも関わらず、閣僚の比率で満洲民族が高くなっている現状が民衆の不満を買ってい ることを危惧していた五大臣などの進言で行われた行政改革であった。 権力を与えずに、漢民族の閣僚数だけを確保してると、評判が悪かったそれまでの複数長官制を中止し、単 数長官制にしたのだ。 しかし、政府自身が満洲民族による支配に固執していたため、結果的に一層満州族の割合が高まり、後にあ る程度改善されたものの改革は失敗に終っていた。 民衆の間では立憲への期待度が非常に大きいものであったが、政府は未だに本格的に立憲に向かって動こ うとしない情勢だった。 そんな情勢の中で、日本政府は梁啓超率いる立憲派に大きな期待を抱いていた。 未だに楽観的な考えから抜けきれておらず、しかも西太后の影響力によって早期の立憲化が望めずにいた 清を目覚めさせるには最早外からの声だけでは到底足りず、清国内からの声の高まりが必要だと認識され ていたからである。 しかし、その立憲派も両巨頭である康有為と梁啓超との間に溝ができ、康有為は開明君主派へと変わって いたため立憲派は梁啓超頼りの部分が多くなった。革命派に比べると人材がいなさ過ぎるのだ。 日露戦争後の親清政策の結果、必要に駆られて清国内の情勢を研究していた日本側からしてみると、最早 清政府単独での建て直しは不可能、生き残るには国内の知識層に多い立憲派との協調が不可能だと判断 していた。 皮肉なことに未だに皇帝制に捕らわれ、軍備さえ増強できれば乗り切れると楽観視していた清政府より余程 正確に情勢を捉えていたのだ。 逆にいえば、英国との関係がギクシャクし始めていた今の日本にとって清の重要度はそこまでしなければな らない程高まっていた。 そして1907年、清政府へ衝撃を、日本政府へより大きな衝撃を与える事件が次々に清にて発生した。 五月二十二日に起きた潮州黄岡の役、同月二十六日に起きた安慶、徐錫麟の乱、六月二日のケ子喩によ る恵州七女湖蜂起、同月五日、未遂に終わったものの紹興での蜂起予定である。それまでの散発的な反乱 と違いこれらの事件は立て続けに、それなりに規模を持って起こった。 特に安慶、徐錫麟の乱では一部軍部が参加したこと、反乱軍が武器庫を奪ったことにより反乱軍に武器が 行き渡ったことなどから即日鎮圧されたとはいえ政府軍側に大きな被害を出した。これは清が軍備増強に 励んでいたことが裏目に出た結果となった。 これら一連の事件に関する反応は各陣営でまちまちであった。 清政府は一連の事件の結果を見て、反乱分子は軍事力で抑えられる。必要なのは軍事力だと考えた。 一方、日本政府からは「かなり切迫した事態」との認識を得た。 最たる理由としては新軍の一部がこれらの蜂起に参加したためである。極一部だったために清政府は重 視していなかったが、日本側はこれを重視したのだ。 今回参加した新軍は確かに一部であったが、元々新軍の将兵達は海外帰りであり、一般民衆よりも遥か に民主主義に対する憧れを持っていると考えたのである。 しかも、清の軍隊を近代化するためには海外での研修は不可欠であり、今後清軍内において新軍の割合 が高まることは確実であった。 そして、新軍将兵の多くが日本で研修を行っていることを考えると、彼らの多くは東京で盛んに活動している 革命派の影響を受け、潜在的に革命思想を持つ者が多くなるであろうとの予測がなされた。 これらの事件が起こった一月余り後、七月十七日に東京で立憲派の新組織「政聞社」の結成大会が行われ た。 日本政府の期待を受けての結成大会には大隈重信や犬養毅、尾崎行雄、板垣退助ら日本政界の要人たち も多く出席し、盛大に行われた。 こうして、日本政府の期待する立憲派勢力に「新民叢報」に代わる柱が出来たのだった。 翌年、1908年になると「政聞社」は四項目からなる立憲に対する主義を宣言した。 一、国会制度の実行と責任政府の設立 二、法律を制定し司法権の独立を強固にする 三、地方自治を確立し中央政府の権限を正す 四、外交を慎重にし、対等の権利を保持す これらに加えて清政府に対し、一刻も早い、具体的には三年以内の立憲開始を要求した。 しかし、清政府側では郵伝部侍郎の于式枚を始めとして、明治維新からを国会設立まで10年の時間が掛 かった日本を例にとり、立憲への準備期間延長を主張していた。 日本政府は清政府からの要望を受けて東京で発行を行っていた革命派の機関紙「民報」を発行停止処分 にしていた。 一方上海へと活動の拠点を動かしていた政聞社も、袁世凱に敵対組織と見られたため西太后の力によって 廃止へと追い込まれていた。「政聞社」の廃止は立憲派への期待を高めていた日本政府からはかなりの批 判が出たが清政府、西太后は聞き入れなかった。 ここに来て順調に行っているかに見えていた日清間は大分ギクシャクして来ていた。もはや、清政府は日本 政府の意向を聞き入れなくなっていたのである。経済的のみならず、政治的な結び付きを強めて清の市場 独占までを目論んでいた日本政府の思惑を逸れ、日清間の関係は経済的、軍事的な面に限定され始めて いた。このことは日本政府の清政府への信頼を大きく損なわせていった。 この頃の革命派は新軍工作へと力を入れ始めたため、清政府の執拗な妨害にも関わらず革命派の勢いは 増していった。 この時期、革命運動は各地で盛んとなり、各地での蜂起も珍しい物ではなくなっていた。 そのため、清政府は各地へと軍を転戦させており、ただでさえ切迫していた財政をさらに悪化させていた。 政治面に於いて日本政府の意向を無視し始めていた清政府であったが国内の革命運動に対してなんら有 効な手段は打てていなかった。 清王朝の存続を考えるならば、早急な立憲以外に手段が無いことは誰の目からも明らかであった。 しかし、現在清王朝を支配している高官達は清国内では圧倒的少数派民族である満州族であり、立憲国家 が成立すれば政権から追われることは疑う余地も無かった。 そのため、現在政権を握っている高官達は、立憲は民衆の不満をそらすための手段であり、実際に行うことは 出来るだけ後延ばしにしようとしていた。 また、一方では革命派を弾圧するために日本との貿易によって得られた外貨を利用し、軍備の充実を図ってい た。 そして、立憲を後延ばしにしたい清政府から見ると立憲派も邪魔な存在であった。 そんな時、清政府きっての革命推進派である皇帝と、清政府の大御所として権勢を振るっていた人物が相次 いでこの世を去った。11月14日には光諸帝が、そして翌日には西太后である。彼らの、特に西太后の死去は 清政府に大きな影響を及ぼした。 光諸帝の後を継いだのは醇親王載?(光緒帝の弟)の子溥儀であったが、溥儀はまだ幼かったために、実際の 政権を握ったのは摂政王であった。 摂政王派不仲だった袁世凱から軍権を取り上げるとともに、政府直属の軍隊を持とうと、皇帝を陸海軍大元帥 へと就任させた。 立憲反対の立場にいた西太后の死去は清王朝の立憲化を望んでいた国内の立憲派、そして日本政府へ一抹 の希望をもたらした。 今まで強大な権力をもち続け、立憲に反対していた西太后の死去により、清政府の立憲が推進されることを期 待したのだ。そこでこの期を逃がさないとばかりに、抑圧されていた立憲派が強硬に立憲を主張し始めた。 日本政府も立憲派を支援するとともに、直接清政府への立憲要請を行っていた。 しかし、摂政王を始めとする皇族、政府の高官たちは権力を手放す気は毛頭なく、立憲への理解は示すもの の、消極的なものでしかなかった。彼らは軍権を満州族が握ることによって革命派に対抗しようと考えていた のだった。 一向に立憲に力をいれず、また国内整備も行わない政府を尻目に革命派は確実に勢力を増していった。 特に、新軍の中枢を担っている留学生たちは知識レベルも高く、革命思想を植え付けるのに適していたために 革命思想は広がっていくのも早かった。 1910年には、広東で新軍の一部蜂起が起こったが失敗していた。 未だに純軍事的な力では革命派を上回っている清国であったが、革命派の力は徐々に強まっており、民衆の 支持を失いつつある清国は危機を迎えていると言っても良かった。 それでも清政府は断固として日本政府の介入を拒否していた。 日本と結ぼうとする勢力が皆無だったわけではない。良弼ら親日家や政府内での比較的立憲派に属している 人々は積極的に日本の力を借りようと進言していたが勢力的には弱く、受け入れられるには程遠かった。 そんな状況にダメを押す事態が宣統三年(1911)に起こった。 新内閣の発表である。 新内閣によって立憲が促進されることに微かな、そして大きな期待を抱いていた立憲派と日本であったが結 果的には落胆を覚えさせられる結果となった。 新内閣中四分の三は満州族で閉められ、約半数は皇族で占められたのだ。立憲を促進する気がないのは 明らかであった。 その後立憲派からの要請を受けた日本政府の猛抗議によって漢民族の大臣が一人増やされたがそれ以上 の干渉は出来なかった。清国内はもはやいつ革命が勃発してもおかしくない情勢となっていた。 そして沸き起こったのが鉄道国有化反対運動(以下争路)であった。 革命派を武力で押さえつけようとした清政府はその費用を捻出するために、鉄道を担保に借款を受けようと 考えたのだ。 しかし、鉄道の国有化は支払いが国債によるものとされたため各地で反対運動が起こった。清がいつまで続 くかわからない、そんな情勢なのだから国債など何の価値もない。 間もなく、反対のための組織が結成さると会員は10万人をあっさりと超えるなど争路は激しい高まりを見せて いた。 そんな中、日本政府が動きを見せた。 「ふむ・・・」 首相官邸の一室で大蔵大臣山本達雄からの報告書に目を通していた西園寺総理が顔を上げた。 「これ以外は無理か?」 「これ以上削っては国内が乱れます」 西園寺総理の質問に、総理が報告書を読み終えるのを待っていた山本蔵相が答えた。 「わかった。下がってくれ」 「はい」 西園寺総理に言われて山本蔵相は部屋を出て行った。 「金剛級二隻の中止か・・・厳しいな」 西園寺総理が狙っているのは清政府への借款である。 争路において、鉄道国有化を現金で行えば、賛成する人間が多い。 外務省からそんな報告を受けた西園寺総理はその現金を日本政府からの借款で補わせようと考えていたの だ。 先程の報告はそれが可能かどうかということに関するものであった。 結論は不可。 ただし、金剛級戦艦二隻の建造を取りやめることが出来るならなんとか捻出出来る、というものだった。 日露戦争以来、ようやく新艦建造が可能となった新型戦艦四隻のうち二隻を中止しなくてはならないのだ。 海軍からの反発は考えるまでも無い。 「だがなんとしても実現させたいな。・・・齋藤君と東郷さんを説得しなくては・・・」 そう決意すると西園寺総理は原内相に連絡を取り二人の説得に当たることとなった。 説得は困難を極めた。話を聞いた斎藤海相、東郷ともに激怒し、話を聞こうともしなかったが、それでも西園 寺総理と原内相は説得を続けた。 借款による利益は莫大なものになる。借款の条件には清の立憲化があるのだ。 立憲が行われれば、清中枢には多くの立憲活動を行っていた人物が入り込む。 そして日本政府は以前より立憲派との関係を深めていたため、立憲派には親日家が多い。 立憲が日本政府の口入りで実現することと合わせて考えれば、清国内における日本の評判も段違いに上がる だろう。 将来的に考えれば、それは莫大な利益を生み出すと言ってもいい。 西園寺総理と原内相はそのことを懇々と説き続けた。 日本の富国は結果的に海軍のためにもなる、今はまだ耐えてほしい。 将来的には必ず海軍にいい結果を生み出すはずだ。 二人の執拗な説得に最終的には齋藤海相も東郷も折れた。 そして正式に日本政府から清政府へと提案された借款の条件は以下の通りである。 一、鉄道の国有化のために使うこと。 二、来年一杯での国会開設及び憲法の発布 三、内閣の入れ替えを行い、漢民族と満州族の比率を最低5:5にし、皇族出身者は二名までとする。 四、命派への宥和政策 五、満洲民族の特権排除 日本政府の考えた、清政府を存続させるための最低条件の要求であった。 さらに日本政府は借款の実現に向けて別の手を打っていた。 「梁さん、お客様ですよ」 「客?」 梁啓超は清の新内閣発表後、急速に静まっていた立憲運動に見切りをつけ、一人各地を巡り歩いてい た。 現在は日本のとある温泉街の民宿に宿泊している。 そんな梁に一人の客が訪れた。 「始めまして梁啓超さんですね。私は帝国政府外務相所属の中村と言います。以後お見知りおきを」 静かに入ってきた男は梁の前に座るとそう挨拶した。 中村と名乗った男は立派な身なりをしており、それなりの地位にいるであろうことは容易に察しがつく。 「それで?わざわざ尋ねて来たんだ。何か用があるんだろ?」 しかし大した興味が沸かなかった梁は素っ気無く聞き返す。立憲運動が収束して以来どうもやる気が起 きないのだ。 「本日は帝国政府直々のご依頼を持ってまいりました」 そんな梁に気を悪くすることもなく、中村は言った。 「ほう」 中村の言葉は梁の関心をやや引いたようだ。 梁は立憲派を支援していた日本政府にはかなり世話になったのだ。 「まずはこちらをご覧下さい」 そう言った中村はやや分厚い封筒を梁の方へ差し出した。 あまり気乗りしない梁であったが、封筒から書類を取り出すと読み始めた。 「・・・む・・・これは・・・なるほど・・・」 最初は適当に読んでいただけだったが次第に読んでいく梁に力が入っていった。 書類の内容は、日本政府が集めた清の情勢、借款の申し出とその条件、そしてそれを側面から支 援するために立憲運動を再燃させて欲しいことなどが事詳細に書かれている。 「・・・話はわかった」 一時間ほどで読み終えた梁はそう言いながら書類から目を上げた。 「ご協力いただけますか?」 「もちろんだ。この機会を逃したら二度と機会は巡って来ねえ。是非とも協力させてもらうぜ」 そう言うと梁は笑みを浮かべた。久しぶりにやる気を取り戻した顔だ。 (これは面白くなってきた。あながち不可能とも言えなくなってきたじゃねえか。) このまま清政府が強硬に国有化を続ければ間違いなく大掛かりな騒動を起こる。 革命派も調子付くに違いない。 この申し出を断り、国有化をやめた場合は財政不足で軍事力強化が押し進まない。 そうなればいつまで革命派を黙らせておけるかわからない。 申し出を受ければ争路は収まり、借款も無事に受けることが出来る。軍事力の増強も可能なのだ。 条件の立憲にしても大幅に期間を短縮することにはなるものの、結局行うことになったものばかりだ。 充分に勝算ありだ。 「有難う御座います。こちらは帝国政府より活動資金の足しにと渡されましたものです。どうぞ御収め下さ い」 中村は礼をした後、そう言いながら別の封筒を取り出した。 こちらにはかなりの額の金銭が入っている。 運動を行うにも先立つ物がなければ効力は薄いのだ。 「もらっておくぜ。これから忙しくなりそうだからな」 そう言って封筒を受け取ると梁は立ち上がった。 「さて悪いけど帰ってくれ。これから仲間連中に連絡をつけねえといけねえからな」 「よろしくお願いします」 梁の失礼とも言える態度に腹を立てるわけでもなく中村は最後に一言頼み込むと部屋を出て行った。 「さてと、まずは徐の奴らに連絡を取らないとな」 そう言って梁もまた部屋を出て行った。 その後、梁啓超からの連絡を受けた徐仏蘇、観雲ら元政聞社のメンバーの動きには目を見張るものが あった。 新しい雑誌の発行、立憲派であった総督や政府内部の人間への接触、そして市民運動の展開など、こ の時期盛り上がっていた革命派に負けないだけの運動を展開して見せた。 その影に日本政府があったことは言うまでもない。 立憲への望みがあることが民衆に知らしめられると、争路を行っていた民衆は鉄道を現金で買い取ること を要求し始めた。 政府に逆らう度胸は無いが、なんとかしたいと考えていた地主連中はこぞって立憲運動に走った。 立憲は政府が認めていることであるため反政府活動にはならなかったため彼らには都合がいいのだ。 これには黄興ら革命派は慌てた。 今回の争路を絶好の革命時期だと期待していたにも関わらず、突如運動の方向性が変わってしまった のだ。 革命派は立憲に流れつつある民衆に対して清政府批判を繰り返し、日本政府の行動は内政干渉しすぎ だ、清のことは清国民で決めるべきだと訴えたがこれは効果があったか疑問視される。 清国民の間で日本の評価は高かったのだ。 なかなか改善されない清政府に比べて、日本政府は少しでも良くしようと口を出して来ているのだ。 日本政府としては清が潰れると困るというのが理由であるが、そんなこと清国民には関係ない。 その頃の清政府内部は揉めに揉めていた。 「一体どうすればいいのだ!」 閣議室に内閣総理大臣奕の怒鳴り声が響いた。 幾度も会議を行っているにも関わらず取るべき道が決まらないためいらいらが募っているのだ。 「何も悩むことはありません。いますぐ反対運動を行っている連中を鎮圧しましょう」 陸軍大臣イン昌が強気な発言を繰り返す。 「そう言っておきながら全然鎮圧出来ていないじゃないか!」 口ばかりのイン昌に奕が怒鳴りつける。 奕の怒鳴り声にイン昌は途端に縮こまった。 「盛よ、日本政府から譲歩は引き出せんのか!」 情けないイン昌から目をそらし奕は盛宣懐へと詰問の矛を向けた。 「申し訳ありません。かなり難しいと言わざるを得ないでしょう」 日本政府からの借款申し出を受けた清政府は取りあえず交渉を開始した。 交渉中であれば革命派も蜂起は出来ない。日本政府の顔を潰すことになるのだ。 立憲派の勢力も無視しえなくなっている。 そこで交渉を開始したのだが、日本政府から突きつけられた期限は僅か三ヶ月であった。 時間稼ぎにはさせない、そんな声が聞こえてきそうな期限だった。 国会開設及び憲法発布に関する期間延長、新内閣、特権排除に関しては撤廃。 それが当初の清側の要求であった。 当然そんなものが受け入れられるはずはなかった。 日本政府が借款を行う以上清政府には立ち直ってもらわなければ困るのだ。 そんな条件では到底不可能だ。 清政府は最終的に憲法の発布は来年一杯で、国会の開設は5年後まで、というラインまで譲歩した が、それも日本政府に蹴られた。 国会開設が遅すぎるというのである。 「こちらがここまで譲歩してやっているのになんて奴らだ!」 奕は憤っていた。 しかし、取れる手段も限られている。 「袁の軍隊を掌握出来んのか!」 奕の言葉は張之洞に向けられていた。 「それが出来るなら苦労しません。袁の力を借りるのが早いと心得ます」 張は無下にそう言って捨てた。 「それは出来ん!」 摂政王や奕と袁世凱との仲は最悪な状態なのだ。 「くそ!どうすればいいんだ!」 奕がそう言っても閣僚の誰一人答えることは出来なかった。 結局この日の閣議も何一つ得ることがなく終了した。 結局日清の交渉は破談となった。 もともと摂政王ら清政府高官は権力志向が強い。 鉄道の国有化を望んだのは自分達の権力を守るために革命派を抑える、そして袁世凱の影響を及 ばない軍隊を持つ為である。 そのために立憲を早めては自分達の権力は失われてしまうのである。 立憲君主制程度の権力では満足できないのだ。 彼等はいまだ革命派はなんとかなると楽観している趣もあったかも知れない。 だがしかし、この時点で清の行く先は決まった。 立憲派や民衆は期待していただけに激怒し、日本はさすがに清を見放し、今後のことも考えて革命 派へ接近を図るようになった。 三ヶ月に及ぶ交渉が破綻してしばらくたった11月10日、清の要衝武昌、漢陽にてついに革命の火 蓋が切られた。 革命派の狙いは武昌の地の利、漢陽の大規模兵器工廠であった。 結局大した戦いもなく両方の土地は革命派の手に帰した。 しかし、清とて手を打たなかったわけではない。 漢陽の提督瑞澂は艦隊を派遣、亀山砲台との打ち合いを始めた。 その中には六年前日本から売り下げられた戦艦の姿もあった。 戦艦の力は大きく、戦いは清側の優勢に運び陸部隊を送り込むことに成功したのだ。 結局、上陸後戦艦の撤退により艦砲射撃が受けられなくなった上陸部隊は結局撤退したものの、工廠に は多数の砲弾が撃ち込まれ灰塵と帰した。 武器工廠を奪取出来なかった革命派は深刻な武器不足し、動きを止めざるを得なかった。 清政府を見限った後、革命派との繋がりを求めていた日本はこの事態を利用し、革命派の支援を秘密 裏に行った。 清政府の滅亡が必至であると踏んだ以上少しでも革命後に利権を残したいのだ。 日本政府の武器援助を受けた革命派は動きを活発化させ、各地を次々と陥落していった。 革命派の戦力の核となったのは革命思想を植え付けられた新軍であったが、それ以外にも親日と見られ る立憲派の新軍も加わっていた。 一度希望を見せた立憲が絶望的になったことへの失望が怒りへ変わり、清政府に向けさせたのだ。 革命派は清の大部分を制圧した後、世界中に向けて中華民国の発足を宣言した。 これらの革命派の動きに対し、革命派を自力では抑えられなくなった清政府は当初日本政府へ支援を依 頼した。 しかし清政府を見限っており、密かに革命派の支援を行っている日本政府は当然これを拒否した。 結局、清政府は嫌っていた袁世凱に頼るしかなくなった。 清政府の要請を受けた袁世凱は革命は不可避と考え、独断で革命派との和平を目指した。 日本の援助により、戦後日本の権益を増えすぎるのを嫌った孫文はこれを受諾、日本の面子と立てる形 で、日本を仲介とした休戦条約が成立さえた。 一方袁世凱が頼りにならないとわかった清政府も完全に諦めてしまったわけではなかった。 良弼ら武戦派は北京周辺に残っている清政府直属の軍を率いて満洲に逃れようと考えていた。 満州への道は陸路では閉ざされているため、海路で向かうつもりだった。 満州はすでに満州族の影響力が弱くなっているとはいえ、満州族の故郷であり、いまだに清政府 側の手にあった。 満州に逃れた後は、戦力を立て直し、日本政府の力を借りた上で、革命派と一戦構えようと考えていた のだ。 一度断られたとはいえ、日本政府は元々親清だったのだ。 希望が無いわけではないだろう。 そして、日本政府の力を借りられればまだ戦える、そういった判断だった。 そしてその依頼は清政府から日本政府へと正式に送られた。 「さて、今日わざわざ緊急閣議を開いたのは清政府からの依頼について、皆の意見を聞くためだ」 そう言って閣議を切ったのは、西園寺首相だった。 「陸軍としては魅力を感じる提案だと考えます」 真っ先に答えたのは石本新六陸軍大臣である。 「魅力を感じるのはいいが勝てるのか?全面介入ともなれば国家財政は長くは持たないぞ」 西園寺総理の懐刀とも呼ばれる原内相が石本陸相の発言に対して言葉を返す。 「立憲派の力を借りられれば短期決戦も可能だと考えます」 石本陸相は自信を持って答えた。 「借りられなければ?」 「一年もあれば片を付けて見せます」 原内相の問いにも相変わらず石本陸相は自信満々に答える。 「根拠は?」 「双方の実力差を考えれば必然の結論です」 「理由にならんな」 「皇軍の力を疑われるのですか!」 「そういう問題ではない。」 いきり立つ石本陸相に対して、原内相はあくまで冷静だった。 「このさい勝てる、勝てないは置いておこう。他の意見も聞かせてもらいたい」 二人が言い争いに突入しそうになったのを見て西園寺総理が話を他の閣僚に向けた。 「海軍としては何とも言えません。残された清軍を満州まで運ぶのは可能でしょう。また最悪清海軍がす べて敵に回っても倒すことは出来ます。しかし、被害はかなり出るでしょうし、その後の陸上戦では何も出 来ませんので明確に賛成は出来かねます」 西園寺総理の言葉に、齋藤海相が慎重に言葉を選びながら発言した。 齋藤海相の言葉に石本陸相が鋭い視線を向けた。 軍人にも関わらず弱気の発言をした齋藤海相を憎らしく思っているのだ。 「外交面から言わせて貰えば反対です。今まで清政府を支援していた帝国政府が革命派を支援しだ したところです。ここで再び清政府を支援することになれば帝国の信頼は地に堕ちてしまいます。」 外務大臣内田康哉が齋藤に続く。 「皆情けない!成功した時の見返りの大きさを分かっているのですか!」 否定派の意見が続き、石本陸相が怒鳴り声を上げる。 見返り、それは清における莫大な権益である。 清政府が日本政府に求めたものは満州へ運ぶ輸送船とその護送。満州へ逃れた清政府に対する経 済的、軍事的支援。 そして革命派との戦いが始まった場合の軍隊派遣である。 見返りとして清国内における鉄道敷布権や無条件の企業進出許可、そして可能な限り早急な立憲化 である。 領土の割譲などは行われないものの実現すれば莫大な利益を生み出すことは想像に難しくない。 日露戦争の結果、諦めかけられていた大陸進出への道が再び開かれるのだ。 軍人ならずとも夢見ることであろう。 「失敗すれば全てを失うのだ。慎重になるのも無理は無いだろう」 西園寺総理がいきり立つ石本を宥めた。 「しかしこんなチャンスは二度とないかも知れません。是非とも受けましょう!」 「一つ提案があります」 西園寺総理の宥めも聞かず、一人で感情を高ぶらせている石本陸相を無視して原内相が西園寺 総理に話し掛けた。 「なんだ?」 西園寺総理も実りのない石本陸相の言葉を置いておいて、原内相に聞き返す。 「満州族の故郷ということで満州だけを清に残すということは出来ないのでしょうか?」 原内相の提案はその場に居る一同を驚かせた。 「それが出来れば中華民国との共存も出来ますし清政府にも恩を売れると思いますが」 「なるほど。交渉してみる価値はあるということか」 「はい」 「よかろう。吉田君、出きるだけ早く中華民国の連中と交渉を行ってくれ」 「わかりました」 西園寺総理の言葉に内田外相が頷くと、いまだに不服そうな石本陸相を残してこの話題は終了した。 清政府と満洲族のために満州の独立を認めないかと話を持ちかけた日本政府に対しての中華民国側の 返事は否だった。 孫文を始めとして革命派は五族協和を目指しており、中国の分割を絶対に認めないと言い切ったのだ。 その口調は予想以上に強く、中国統一への想いは日本政府を諦めさせるのに充分だった。 日本政府は大いに悩んだ。 こうなれば方法は二つ。 清政府を見捨てるか、清政府と協力して中華民国を制圧するかである。 いままでこちらの助言を聞かなかった清政府に助ける価値はあるのか、成功した場合のメリットは大き さ、清政府に民心はついてこない、果たして軍縮状態の今の戦力で勝てるのかなどなど激論が交わされ た。 結局日本政府は清政府の申し出を拒否するという結論を出した。 石本陸相を始めとする強硬派の軍人や一部商人などは最後まで清への協力を主張したが先に海軍が反 対で一致したことを受けて折れざるを得なかった。 日本政府に拒否された清王朝に生き残る術はなく、清王朝は永きに渡る支配に終わりを告げ、中華民国が 正式に発足したのである。 その後、革命派と袁世凱の話し合いによって中華民国初代袁世凱が座ることになった。 |
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