1916年、欧州全土を巻き込んでいる戦争は膠着状態を見せていた。


1914年の開戦当初、修正を加えたシェリーフェンプランの乗っ取って対仏戦を開始したドイツはフロン
ティアの戦いを始めとして順調に進撃を進め、パリ全面まで迫ることに成功した。

しかしドイツ司令部の考えに反し、それまで秩序だった後退を続けていたフランス軍はパリを起点に反
抗に転じ、イギリス遠征軍もこれに参加した。

九月六日、クルック率いる独第一軍の側面を突いたパリ防衛軍に対し、クルックは遊軍と化していた二
個軍団を当て防衛に努めることとなった。


この二個軍団は本来ロシアに送られるはずだったのだ。


ロシアが東プロイセンに進行したことにより小モルトケは新たな軍団を東部戦線に派遣するかを迷って
いた。

しかし極東に大きな兵力を配置していたロシアは満足な兵力を得ることが出来ず、侵攻スピードはあま
り速いものではなかった。

そのため小モルトケはいつでも増援として派遣できるように二個軍団を半ば遊軍状態にするに止め、派
遣を行なうには至っていなかった。

それがマルヌでの戦局に吉と出たのだ。


しかし独第二軍が仏第五軍に押され、独第三軍も仏第九軍に押されているのを見て小モルトケはフラ
ンス軍が戦力を維持していた事を知り、九月八日には退却を命じた。

小モルトケからすると、ロシアの東プロイセン侵攻に備えて二個軍団は派遣できるようにしておきたか
った。そのため長期の抵抗を求めず、退却し防戦に努めることを望んだのだ。

結果ドイツ軍はなんとか戦線を維持しながら後退、エーヌ川とマルヌ川を防衛ラインとして塹壕を掘り
始めた。

これ見てフランス、イギリス軍も進撃を停止、ドイツ同様に塹壕を掘り長期戦の様相を呈し、第一次大
戦において余りに有名な塹壕戦へとその戦いを変えていった。



マルヌ会戦と呼ばれるこの戦いによってフランス、イギリス軍は大成功とまではいかないものの、ドイ
ツ軍にある程度の打撃を与え、戦線を後退させることに成功した。そし てドイツのシェリーフェンプラ
ンの失敗は明らかとなり、短期勝利の可能性を失ってしまった。


一方東部戦線においてはロシア軍が東プロイセンへ侵攻したものの、この年の9月下旬〜10月上旬
にかけて行なわれたタンネンベルグの戦いにおいて大打撃を受け、国境付 近まで後退していた。


ドイツ側も積極的にロシア側に攻め込むことはしなかった。


後世の歴史家の間では、この時期ドイツがロシアに攻め込んでいれば戦争はどう転んだかわからなか
ったという者もいる。


実はこの時期、ロシア軍の火器は圧倒的な不足状態にあったのだ。

戦争開始後、日本に武器の輸出を求めたロシアであったがドイツ寄り中立である日本はこれを拒否せ
ざるを得なかった。潜在的な敵国家であるロシアに武器を売るというのは 日本の感情に反する物であ
ったのだろう。

その後ロシアは中国から非正規ルートで三八式歩兵銃を始めとする小銃、火器を輸入しなんとか戦線
を保つ事に成功していたが、親密さは無く、存在的な脅威であるロシアへの態度は中国も冷たく、現金
のみでの買い付けとなったため満足な量を仕入れることは難しかった。それこそ兵士全員へと行き渡る
かどうか程度の量だったのだ。


しかもそれだけの量の武器を入手するのはしばらく後のことであり、この時点でドイツに攻め込まれれ
ば戦線を維持できたかは極めて怪しかったのだ。


しかし結局のところ、ドイツが攻め込むことはなく戦線は東西に渡ってこう着状態へと陥った。



戦線が膠着したとはいえ1914年末にはトルコが同盟側として、1915年にはブルガリアが同盟側、
イタリアが協商側に立って参戦するなど、欧州における戦線は拡大していく一方だった。



欧州での戦いが誰もが、いやほとんどの人間が予想し得なかったほどの長期戦となり、各国総力を
上げての戦いを行なっている頃、欧州から見て東と西にある国では戦争特需によって大きな利益を
上げていた。


言うまでもなく日本とアメリカである。


アメリカでは独自のモンロー主義と中南米での騒乱などの理由から本格的に欧州の戦争に乗り出す
ことはなかったが、英仏への資源、食料、船舶などの輸出を行い、金融面でも結び付きを強めてい
た。


一方の日本は日英同盟の破棄や日独協定の締結によってドイツ寄り中立に立っていたが、欧州が
戦争で忙しい隙を見計らって様々な民需製品を各国に輸出し、欧州へは船舶の輸出を行なうなど大
きな利益を上げていた。

日本政府としては当初の予定通り、極東地域のドイツ支配地のみならずドイツ本国へも物資の輸出
を行なおうとしていたが、そう簡単にはいかなかった。

イギリスが北海を封鎖すると共に、ドイツへの軍需物資を始めとする様々な物の輸出を禁止したのだ。

日本政府はこれにたいして抗議の言葉を送ったが、認められることは無かった。参戦しても勝ち目の
見えない日本政府としては強いことは言えず、一度は引き下がった。


もっとも、この件に関してはほぼ同時期に米国が抗議したことで解決する。

日米双方からの要求を跳ね除けるだけの力は英国にもさすがになかった。

もちろん完成した武器を軍需物資を運ぶ事は許されなかったが、原料や生活物資は検閲のうえで
運び込む事を許可された。

しかし当のドイツが当初はほとんど輸入を必要としておらず、日本政府が期待したほどの貿易額は
稼げなかった。

またドイツが無差別潜水艦作戦を行うようになると米国、帝国内で非難が高まりそれと同時に再び
英国が北海を封鎖、今度はアメリカもそれに抗議する事がなかったため、再びドイツ本国への輸
出は難しくなった。

ドイツが日米の抗議によって無差別潜水艦作戦をやめても日本から民間製品が運ばれるだけと
なり、原料の輸出は復活しなかった。




他方、それ以外の方面で日本に予想外の大きな利益をもたらした存在があった。

隣国中国である。



それを説明するには現在の奇妙な国際関係を説明しなければならない。

第一次大戦の会戦直前に達成された日本の悲願、関税自主権の回復は第一次大戦中の貿易に
大きな助けとなった。

それがなければ満足な利益を上げる事は出来なかっただろう。


一方の中国は依然として世界に認められる国力は無く、革命などの国内の混乱も手伝って依然とし
て列強とは不平等条約を結ばされている。


それだけならごく普通の国際関係だったのだ。

しかし、日露戦争後の親清政策の結果日本と中国の間には平等条約が存在している。

これが日本に思わぬ利益をもたらす原因となった。


中国において生産された農業品、日本企業の進出以来それなりの性能を維持出来る様になった軽
工業製品は平等条約を結んでいる日本へと売却され、日本の企業はそれを列強各国に売る。

また輸入に関しても一旦日本を通す事で中国の望む額に近い値段で輸入できる。

日本としても中国の輸出入のほとんどに携わる事となり、莫大な利益を上げる事が出来た。



また、ドイツとの結びつきが無い中国は別のことでも役に立った。

ロシアから持ちかけられた武器輸出はドイツとの関係や国内感情もあり達成出来なかったが、中
国を通す事で行なわれることとなった。

日本からすれば友好関係にある中国に武器を売るだけであり、中国がその後どうしよと知った事
ではない、というわけだ。


日本はこの時期日独協定を除けばそこまでドイツに肩入れしているわけではない。

ドイツとの関係も技術を求めてのことであり、国民感情としては取り立て親独というわけではないの
だ。

陸軍の一部強硬派の参戦要求を阻む一因として、そんな世論があった。



また、中国を通して売却する相手国であるロシアは圧倒的な火器不足により、立場が弱い。

本来不平等条約を結んでいる中国相手でもきちんとした値段で買わざるを得なかった。他に武器
を輸出してくれそうな米国は日本、中国に比べて遠すぎるのだ。



結局日本は以前中間貿易で栄えた琉球王国と形は違えでも、同じような利益を上げる事に成功し
たのだ。



日本の貿易額が1916年には輸出超過5億を超え、翌1917年には8億にまで達したことを考え
ればいかに凄まじいかがわかるだろう。





しかし、そんな日本といえども完全に戦争の外にいるわけではない。

戦争に対して少なからぬ影響を与えているのだ。


その最たるものは、太平洋地域における独、英の艦隊戦力に現れた。

開戦時のドイツ東洋艦隊(シュベー艦隊)の戦力は装甲巡洋艦二隻(クナイゼナウ、シャルンホル
スト、)と軽巡二隻から成り立っていた。

開戦後、日本の支援を期待してシュベーは太平洋地域に存在していた軽巡二隻を青島に集結
させた。結果軽巡はエムデン、ドレスデン、ライプチッヒ、ニュールンベルグの四隻となった。

一方の英国は日本が潜在的敵国になった以上、聯合艦隊に対抗出来るだけの戦力を極東に貼り
付けておかなければならなくなった。

可能性は低いとはいえ日本が攻めてくる恐れもあるのだ。


当初は聯合艦隊の戦力は日露戦争後急速に低下しており、ド級戦艦もないことから大して警戒され
ていなかったのだが日本が金剛級巡洋戦艦4隻(うち一隻はドイツにて建造)の建造を開始したこと
が知らされると急速に警戒の度合いを高めていった。

金剛級の正確なスペックはわからなかったが、ドイツが本来日本に売却すべく金剛級として作られた
巡洋戦艦を通してある程度の性能は判明した。


主砲はそれまでのドイツになかった14インチ砲であり、大きさから推測される排水量からかなりの
重装甲と判断された。

そして、それに類似した巡洋戦艦を聯合艦隊は三隻建造していることとなる。


これにはさすがの英国も極東艦隊を強化せざるを得なかった。

金剛級が三隻竣工するとすれば聯合艦隊の戦艦、巡洋戦艦の数は金剛級三隻、薩摩級二隻、伊
吹級二隻、筑波級二隻、二線級戦艦として三笠、香取級二隻の計12隻となる。

一見すると数だけは揃っているように思えるが、金剛級を除くとその全ては前ド級戦艦であるため
戦力としては期待できない。

当時前ド級戦艦は三隻そろってようやくド級戦艦一隻と同等とまで言われていた。
その数え方で行くならば聯合艦隊の戦力はド級戦艦六隻相等となる。

開戦当時、英国が建造中の物とあわせて四二隻を所有していたこととあわせて考えればあまりに
小さな戦力である。

しかし、見過ごす事の出来ない戦力であることも事実であった。特に金剛級の排水量は三万トンを
超えると見られている。それに対抗出来る、少なくとも一蹴されないだけの戦力を極東艦隊に配備
する必要性に駆られた。

そこで英国はライオン級巡洋戦艦四隻を極東艦隊へと配置した。

同じ14インチ砲を備えたライオン級であれば金剛級相手でもそうは遅れをとらないだろう。

排水量の点で言えば劣っているが四対三ならばなんとかなる、そういった判断だった。

金剛級以外の押さえとしては、ベレロフォン級戦艦三隻(ベレロフォン、シュパーブ、テメレーア)を
派遣した。

真正面から連合艦隊と遣り合えばどちらが勝つかわからないほどの大戦力である。


これほどの大戦力を送った背景には対独戦は陸戦が主であること、ドイツの大海艦隊の増強著し
いとはいえ、まだまだ英国の方が上回っていることなどは考えられる。

しかしながら、さすがに新鋭艦であるライオン級四隻を含んだ七隻もの派遣はかなりの重荷であ
る。

このことは後に行われたユトラン沖海戦でも影響を及ぼした。



連合艦隊への対処とは別に必要なドイツ東洋艦隊への対処は、もともと極東艦隊に配属されてい
る旧式戦艦と装甲巡洋艦で充分に対処可能だと考えられていた。

しかしその考え方は戦争が始まると改めざるをえなくなる。



戦争が始まるとシュベー艦隊は青島を拠点にして通商破壊活動へと乗り出した。

六隻での大規模な襲撃もあれば、軽巡のみでインド洋まで乗り出すこともあった。

その神出鬼没なシュベー艦隊を英東洋艦隊は補足する事が出来なかった。

基本的にシュベー艦隊優速だということもある。


ライオン級巡洋戦艦を動かす事が出来るのであれば補足、撃沈は容易い。ライオン級はシュベー
艦隊より4ノット以上優速なのだ。


しかしライオン級を容易く動かすわけにはいかなかった。ライオン級の存在は日本への牽制そのも
のなのだ。格下の相手に躍起になっているようでは日本になめられてしまう。

そしてベレロフォン級ではシュベー艦隊に追いつけなかった。



また、例えシュベー艦隊を追い詰めたとしても簡単には事態を運ばせてくれなかった。



一度青島へ帰る途中のシュベー艦隊を、ライオン級二隻を含んだイギリス艦隊が追撃戦を行った
ことがある。

その時、シュベー艦隊は日本近海へ一目散に逃げ込んだのだ。ぎりぎりまで追いかけたイギリス
艦隊であったが、それ以上追撃することは出来なかった。


中立国近海へ軍艦が無断で入る事など出来るはずがない。


当然イギリスは日本へドイツ艦隊を追い出すように抗議し、戦争に巻き込まれたくない日本もシュ
ベー艦隊へと文句をつけた。


しかし、その連絡は数分で出来るものではない。その間にシュベー艦隊は別のところから離脱、
まんまと逃げ出す事に成功したのだ。

日本がドイツ寄り中立だからこそ出来る芸当である、また何回も使える手ではなかった。

シュベー艦隊はその後もあの手のこ手で英国艦隊の追撃を避け、太平洋狭しと駆け回った。



太平洋方面での戦いはそれだけではない。シュベー艦隊はその機動力を遺憾なく発揮し、太平洋
にあるドイツ領の守備兵を青島へと運び込んだ。島々での防衛は不可能だと判断してのことだった。

結果青島にはそれなりの兵力が揃い、日独協定に定められている日本からの軍事物資の補給も
あってイギリスの侵攻部隊を追い返し続けた。

もっとも、英仏共に日本を警戒してあまり大きな戦力移動が出来なかったこと、太平洋にあるドイツ
領全てを占領したことにより英国もかなりの戦力を配置しておかなければならないことも関係してい
る。


ともあれ1916年の段階で、いまだ青島とシュベー艦隊が生き残っているのは驚嘆に値する。







さて、ここで金剛級巡洋戦艦について触れておこう。


日露戦争後主力艦のおよそ半数を清および大韓王国へと売却した海軍は、新鋭艦の建造を熱望
するようになった。薩摩級ではすでに時代遅れだと判断されていたのだ。

しかし時代は軍縮の流れを呈しており、新造戦艦の建造はすぐには認められなかった。

その後親清政策などでようやく息を吹き返した日本経済のもと、海軍は再び新造戦艦の建造を
訴え始めた。

列強の海軍に比べて聯合艦隊は時代に遅れになりつつあるという海軍の懸命な訴えにより明治
44年、ようやく金剛級巡洋戦艦四隻の建造が認められた。

発注は日独協定締結以来予定していた通りドイツへ行われた。


しかし、金剛級の設計は一から行われたので起工はやや遅れる事となった。



金剛級巡洋戦艦への日本側の攻撃面での要求は14インチ砲の搭載である。

イギリスのライオン級の13.5インチ砲やアメリカで計画されている14インチ砲への対抗として1
4インチ砲の搭載を望んだのだ。


日本側の考えとしては数で勝てない以上性能では少しでも勝っておきたかったのだ。

ドイツ側の返答は「14インチ砲ならば搭載するのは可能である」とのことであった。

当時のドイツは12インチ砲にも事欠く状態であったが、なんとか14インチ砲の実現化を成功した
ばかりだった。

それを日本艦で実験してみようという考えがなかったわけではないだろう。


日本側は危ぶんでいた14インチ砲の搭載が可能と知らされ大いに喜んだ。


さらに、日本側の要求は防御面においても行われた。

日本側の要求は抽象的、なおかつ具体的だった。

「14インチ砲弾を多数受けても沈まない、または被弾しないように高速を発揮すること」

ただそれだけであった。


この要求も日本の情勢に大きく影響されている。

何度も言うようであるが、日本では新造戦艦の数が圧倒的に足りないのだ。

金剛級が一隻でも失われるようなことがあれば、日本海軍の戦力は大きく減じる。

どうしても数で劣る以上なんとしても沈みにくい戦艦を建造するしかなかったのだ。

また日本の勢力範囲は狭く、それに伴って戦場も本国からそう遠く離れたところにはならないこ
とが予想される。

となれば沈みさえしなければ、なんとか本国まで帰還することが比較的容易いのだ。


この日本の要求にドイツは過分なほどに応えた。

元々重装甲はドイツの得意とするところであるため、速度を重視するよりも重装甲という回答で
示された。



金剛級巡洋戦艦はそれぞれ「フォン・ライヘア」が1914年に、比叡、榛名、霧島が1916年に
竣工した。


金剛級の性能は以下の通りとなった。

「巡洋戦艦金剛」

常備排水量 33,700t
満載排水量 35,500t
全長     218m
全幅    29.8m
喫水   9.3m
出力   72,000hp
速力     25.5ノット
航続力   8000海里/14ノット
兵装    45口径14インチ連装砲4基
      50口径15サンチ単装砲8基
      40口径8.8サンチ単装砲4基
       53サンチ魚雷発射管4門
装甲    水線310mm 甲板85mm 主砲塔前盾280mm
       天蓋115mm 司令塔300mm

乗員    1130名


巡洋戦艦とはいうものの、排水量は3万トンを超え、決して戦艦に負けない装甲が施されてい
る。また、ドイツ製としては初の14インチ搭載艦であることも注目に値する。そして、増えすぎた
排水量を少しでも押さえるために副砲がやや少なめとなっている。


この金剛級の建造はドイツにも大きな影響を与えた。

日本が14インチ砲搭載を望んだ結果、それを可能だと知ったドイツ海軍上層部が反応を見せ
たのだ。


建造を予定していたデアフリンガー級の設計を金剛級に準じた物にしようとしたのだ。

そのため、あえてデアフリンガー級の建造を遅らせていた。

結果、デアフリンガーは開戦には間に合わなかったが、開戦当初に大規模な海軍軍事行動がな
かったために大きな影響は及ぼさなかった。

さらにドイツ海軍はケーニッヒ級戦艦にも14インチ砲を積もうとしたが、さすがにそこまでの14
インチ砲の生産が間に合わず、従来どおりの13インチ砲艦として竣工させた。


もっとも海戦が何もなかったわけではないが、ドッガーバンク海戦など、主力艦が沈む事のない
戦いばかりであった。

つまり、大海艦隊は戦力的に英国艦隊に現在も劣っているということになる。


そのため大海艦隊は艦隊保全へと走っていたが、1916年1月シェーア提督が大海艦隊司令
長官に任命されると風向きが変わった。

英国の封鎖による圧力と、日米の抗議の結果弱まった潜水艦作戦に変わる海軍の行動が求め
られるようになったのだ。


シェーア提督が積極論の持ち主であったのと合わさり、英国艦隊と決戦を行う計画が練られて
いった。


さらにシェーアは「我が国に四隻しかない14インチ搭載艦を対英に投入しないでは勝ち目は無
い」として「フォン・ライヘア」及び「デアフリンガー」級三隻の整備を常に完璧にしておくように厳
命した。



シェーアの計画は当初巡洋艦を囮としたおびき出し、Uボートによる後方の脅かしながら殲滅
を目指すというものであったが、悪天候などに邪魔され、計画は中止となった。


そのため計画を変更、巡洋戦艦などに示威行為をさせ後方から見られないように主力艦隊
が殲滅を狙ってついていくという作戦となった。

この時点での両海軍の参加可能主力艦の火力を比較すると英国:独国=戦艦25隻、巡洋
戦艦5隻:戦艦17隻、巡洋戦艦5隻、前ド級戦艦6隻=12インチ砲100門 13.5インチ砲1
04門 14インチ砲10門 15インチ砲40門:11インチ砲98門 12インチ砲128門 14イ
ンチ砲32門となり、かなり英国が有利になっている。


これが戦史上もっとも多くの戦艦が参加したとして有名になるユトランド沖海戦へと繋がって
いく事となるのである。





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