1917年初頭、欧州での戦争はやや同盟側に優位なまま展開していた。



前年に行なわれたヴェルダンの戦い、ソンムの戦いで連合国、同盟国双方とも多大な死傷者を出した西部戦線は完
全に膠着状態であった。


1917年に入り、西部戦線おける兵力は同盟側270万、連合側330万と数の上こそ協商側が優位に立つようになっ
ていたが、マルヌ川などの地形を巧みに利用した塹壕を突破するには兵力が足りなかった。



一方の東部戦線では、ロシア軍の装備不足が目立ち、全体的に同盟側優位の展開が繰り広げられていた。


前年に行なわれるはずであったロシアの大攻勢は、装備の不足から実施は見送られ、今ではピンスク、モロジュチノ、
ドウィンスクのラインで辛うじて持ちこたえている状態であった。


英仏などからロシアに対して行なわれる物資援助には限界があり、中国を通して為される日本からの物資も即払いの
みというその取引方法ゆえに、数だけは多かったロシア軍を賄うだけの兵器は揃わなかったのだ。



ロシアに対して、後払いを認めないという日本の態度は連合側は不満を募らせてはいた。


明らかに独逸に肩入れしている。


そういった批判が幾度となく行なわれたが、いまここでさらなる敵を抱えることが出来るはずもなく、それ以上のことは
出来なかった。




この批判を受けた日本は当初僅かに戸惑いを見せた。


日本からしてみれば、敵対国と言ってもよいロシアに、中国を通してとはいえ、物資を輸出するだけでも充分連合国側
に協力していると思っていたようだ。


もっとも、この戸惑いも連合国側がそれ以上言ってこないことですぐになくなった。



そしてこの事が、日本に妙な自信を持たせる。


連合国側は日本の参戦を恐れている。


この先多少強引に振舞っても文句をいうことしか出来ないはずだ。



そんな考え方が大戦後半の独逸へのあからさまな肩入れに、ひいては大戦後の連合各国との関係の悪化に繋がるの
だが、大戦景気に浮かれる日本でそのことを真剣に危惧する者はほとんどいなかった。




ユトランド沖海戦の結果北海の封鎖が緩んだ事で、独逸の物資不足も幾分回復したことも同盟側優位の評価を下させ
た。


日本国内でも同盟側の勝利を確信し、今からでも参戦すべきだという声が一部の強硬派からは上がったものの、大部
分はそれに乗らない程度の冷静さは保っていた。


現時点で日本が即座に動員出来る数は陸軍12個師団、国内の守りも考えれば海外へ派遣出来るのはせいぜい7個
師団に過ぎない。


東南アジアに存在している英仏軍にすら勝てないであろう。



それが分かっていながら、連合国側が日本の参戦を恐れていると思い込んでしまう辺り、日本中がどれだけ大戦景気
で浮かれていたのか想像がつく。



この頃の政府の行動は、現在の戦線での全面休戦を控えめに呼びかけるなどに留まっていた。


それさえも大きな発言力を持つだけの国力は無いことから、協商側からはやんわりと、連合側からははっきりとした拒
絶を受けていた。




1917年になって英艦隊が回復すると、北海は再び厳しい封鎖が施され、連合側にも米国からの(民需物資中心では
あるが)物資が届いており、西部戦線に限っては全く予断を許さない状況であった。



前年の損害から体勢を立て直した連合国はニヴェルの指揮する仏軍を中心として、独逸軍を少なくともランス、ラー
ン、サンカンタン以東に押し戻すための作戦を実行に移した。


この作戦には念入りな準備が行なわれ、連合国から大きな期待が寄せられていた。



しかしこの作戦は大失敗となり、協商側に大きな損害のみをもたらす結果となった。


この時期独逸はヴェルダンの戦い、ソンムの戦いの間を利用し、圧力の弱まっていた中央部に強固な陣地を作り上げ
ていたのだ。


エペルネー〜シャトー・ティエリー〜コンピエーニュ〜アラスを繋ぐこの陣地は「ジーク・フリード」(連合側名「ヒンデンブ
ルク・ライン」)と呼ばれ、以降1919年に至るまで連合側の攻撃を跳ね返し続けた。





そして2月。


連合側を震撼させる事態が起こった。


ロシア革命の勃発である。



二月末の大雪でロシア国内の鉄道網が一部使用不能となると、食料の供給が停滞する地域が出始めた。


ただでさえ大戦の影響で物資が不足がちであったことと合わさり、人々の不満は一気に膨れ上がった。


その結果、食料を求める大規模なデモが発生。


3月に入ると一気に過激化した。



ロシア皇帝ニコライ2世はこのデモに対し、強硬手段での鎮圧を図った。


その結果、軍隊が民衆に向けて発砲するといった事件が起こり、民衆に多くの死傷者を出すこととなった。



それでも一連のデモを止める事は出来なかった。


デモに加担する軍も出始めるなど次々と事態が拡大すると、首都にある軍隊だけでは押えることが出来なくなってしま
った。



大本営で指揮に当たっていたニコライ2世は鎮圧のための軍隊を率いて首都ペテログラートへ向ったが、雪やその他
の原因による混乱のため遅滞。


その間に首都はほぼ完全にデモ隊、この頃には既に反乱軍と言える、の支配下に落ちた。



そして3月15日、帝政の維持は不可能と見た軍司令官達は、全員賛成でニコライ二世に対して退位要求を突きつけ
た。


軍の支持を失ったニコライ2世にこれを断るは力は無く、止む無く退位、その地位を皇太子アレクセイに譲ったが、彼
の血友病が不安の種となり、再度皇弟ミハイルへと譲位された。


しかし、ミハイルは種々の事情により断念。


ここにロマノフ王朝は304年、日本を代表する長期政権である江戸幕府よりも長いその歴史を閉じた。





ロマノフ王朝が倒れた後のロシアでは、ルウォウによって臨時政府が成立したが、安定政権を得る事が出来ず、この
先ロシア内部では様々な政治的闘争が繰り広げられることとなった。




ロシア革命の成功は連合側を震撼させたものの、直ちに大戦終結への道が見えると言った変化は及ぼさなかった。


革命後もロシアは独逸と戦い続け、ときに攻勢に出るなど東部戦線を維持し続けていたのだ。



むしろロシアにも民主主義が成立したとして喜ぶ意見もあった。



もっともロシア国内には停戦を主張する国内勢力もあり、戦力がやや低下したことは否みようのない事実であろう。





そして、このロシア革命に最初に積極的干渉を始めた諸外国は独逸であった。


4月になると、独逸はロシア国内にさらなる混乱を巻き起こそうとロシア国外に住んでいたレーニンを始めとするロシア
人革命家を大量に送り込んだのだ。



この策は功を奏し、戦争継続派と休戦派など、ロシア内部様々な対立が表面化し始める。


五月に入り、臨時政府が連合国との間で七月攻勢に出ることを約束すると、この方針を巡って対立はさらに激化し、ロ
シア指導部は指導力をみるみる低下させていった。



それでもロシア軍は連合国との約束通り、7月に攻勢に撃って出た。


しかし、既に多くの脱走兵を出すなど士気の低下は明らかであり、依然として装備も不足していることに加え、指導部の
混乱があるような状態ではどうしようもなく、逆に独墺軍に痛撃さて、大きな損害を出した。




逆に8月に入ると、独逸が攻勢に撃って出、リガ、ピンスクを占領するなど、徐々にロシアを奥へ奥へと追いやっていっ
た。


順調に進撃していった独逸は、9月にはミンスクが包囲、さらに11月にはペテログラードを望めるまでに進出を果たし
た。



中々戦線を立て直す事が出来ないロシア側は、止む無く首都をモスクワに移さざるを得なかった。


この頃、政権争いで総司令官が次々変わるなどの事情も合わさり、もはやロシア軍の戦意は地に落ちていた。



時を同じくして、ロシアでは独逸が送り込んだ革命家の一人であるレーニンが政権を握ることに成功する。


10月より発生していたロシア10月革命、共産革命とも呼ばれる革命が成功したのだ。


大国の共産化。


それは世界中の自由国家(に限らないのではあるが)に脅威を与えるものであった。



しかし、連合国にはそれ以上の衝撃がほぼ同時に起こる。


レーニンが独逸に休戦を呼びかけたのだ。



西部戦線では決して有利と言えなかった独逸はこの提案を比較的すんなり受け入れた。


12月15日、ロシア、いやソ連との同盟側の間で休戦協定が調印され、東部戦線での銃声は一先ず、あくまでも講和
条約へと結びつくまでであるが、途絶えることとなった。





ロシアの脱落。


それは停滞していた第一次大戦の戦局を一気に崩し兼ねないものであった。


この協定には東部戦線の軍を直ぐに西部戦線に送らないことが一応の条件とされていたが、東部戦線が消滅するか
もしれないという精神的な要素だけでも充分に大きな影響を与える。



西部戦線で1916年の防戦、17年の膠着を経て18年攻勢に転じたものの、芳しい戦果を上げられなかった連合国の
焦りは並々ならないものであったろう。





幸いにも、連合国の危機感は直ぐには現実へと繋がることはなかった。


本来であればこの後に講和条約へと繋がり完全に東部戦線が終結するはずであったが、この講和条約がなんら進捗
を見せなかったのだ。



痺れを切らした独逸軍はいまだ戦闘可能状態を維持させておいた東部戦線軍を使い、冬にも関わらず更なる攻勢に
出た。


いまだ混乱さめやらぬソ連軍はこの攻勢を支えきれず、独逸軍はミンスクを占領、そしてペテログラード目前まで再度
迫った。




此処に至り、レーニンは止む無く独逸に降伏。


両国の間でブレストリトウスク講和条約が結ばれた。



この条約はお互いの捕虜の返還や、黒海ソ連海軍艦船の抑留並びに、フィンランド、バルト三国、白ロシア、ウクライ
ナ、ポーランド、コーカサス、ベッサラビアらの領土が独逸へと割譲、といったものであった。


この領土は新しく誕生したソビエトにとって余りにも広大かつ重要な領土であったが、これ以上の戦闘続行は革命の成
否そのものが怪しくなることからやむなくの講和となった。



ソ連国内にはいまだ共産化に反対する勢力も確かに存在していた。


レーニンはようやく成功した共産革命をなにより大事と考えたのであろう。




さらに、これらの条件に加え、日本等アジアからの物資をシベリア経由で独逸へ運ぶのを邪魔しないことが付け加えら
れていた。


これは、この大戦中に急速に需要の増したゴム等の物資が同盟国内ではほとんど産出されないために必要とされた
措置であった。



この講和条約は、期限付きという一風変わった講和条約ではあったが、少なくともこれで東部戦線が完全に消滅したこ
とだけが確かである。





一方の西部戦線を眺めてみよう。



1917年の西武戦線では攻める連合国、守る同盟国という展開が至る所で見られた.


しかし大きく地を稼げたところはなく、一概に連合国が有利と言うことは出来なかった。



それでも11月末に行なわれたカンブレーの戦いでは、この大戦で使用され始めた新兵器「戦車」を集中投入し、一時
「ジーク・フリード」を突破するほどの戦果を上げた。


結局この戦いは詰めを誤り、再び「ジーク・フリード」の外側に押し出されていたものの、得る物は多かった。



予備砲撃なしの戦車の集中突入。


カンブレーの戦いで連合国軍が見せた戦い方が、のちに独逸のゲーデリアンらの手によって電撃戦という形をとってい
くことになる。




連合国側が堅守を誇る「ジーク・フリード」といえども戦車の活用次第で抜ける、との自信を持った矢先の休戦協定であ
る。


さらに、独逸が予備戦力の一部を回してイタリア戦線で行なったカポレットの戦いでイタリア軍がピアヴェ川まで追い立
てられたのもこの頃である。



連合国内に生まれていた勝利への自信が大きく揺らぎ始めた。


東部戦線の消滅やイタリア戦線での戦いの結果、東部戦線やイタリア戦線から兵力が西部戦線へと回され、西部戦線
における連合国側の数の優位すらも失われつつあった。




翌1918年3月には西部戦線における独逸軍の数は370万に達し、連合国側の300万を大きく上回るようになった。


さらに連合側にとって問題であったのは、独逸に対してソ連経由で日本からの物資が悠々と送られて来るようになった
ことである。



大戦を通じて、この時期が連合側最大の危機であったと言われるゆえんであった。





ここで独逸軍令部は勝利を決定的にするためのある作戦を実施、正確には以前の作戦を拡大して再開した。


すなわち無制限潜水艦作戦である。



戦車と同じく第一次大戦から使用されるようになっていた潜水艦によって、特定領域を通過する船舶を全て、それこそ
所属国籍に関係なく攻撃、撃沈する。


それによって、英国への物資をストップさせようというのである。



他国からの物資が無ければ戦えない、最悪食料すら足りない英国の島国という弱点をついた作戦であった。


そのため潜水艦による通商破壊活動は第一次大戦開戦以来幾度か行なわれていたが、中立国の船舶を攻撃出来な
いために、満足な効果を得ることが出来ずにいた。


さらに、その度に英国に物資を民需物資を送っている中立国(この場合主に米国)からの抗議もあって中断を余儀なく
されていたのだ。




それを今度は全ての船舶を対象に実施したのである。




この作戦は確かに大きな成果を上げた。


英国が、いまだ潜水艦に対する有効な対処法を編み出すことが出来ていなかったために、独潜水艦は大西洋を荒らし
まわった。


最大時には、英国へ入る船舶の25%、実に4隻に1隻を海底へと送り込んだのだ。



そのため英国内では物資が極端に不足、食料が配給制になるなどの措置を取らざるを得なり、一時は食料の残りが
僅か2か月分も満たないという瀬戸際まで追い込まれた。



独逸の潜水艦作戦を英国が手を拱いて見ていたわけではない。


数千にも及ぶ巡視艇で絶えず巡廻し、駆逐艦部隊が港外に多数の機雷を敷設するなどの対抗措置をみせた。


しかし、これらの対策は独逸潜水艦部隊に精神的プレッシャーを与えることには成功したものの、それ以上の効果を発
揮することは出来なかった。



独逸の無差別潜水艦作戦封じに最も大きな成果を上げたのは、1918年5月から実施され始めた護衛船団方式であ
った。


現場や若手の参謀が望み、ロイド・ジョージが後押ししたこの方法は、船団を多数にまとめ、それを複数の護衛艦で守
った。



この護衛船団方式が効果を上げ、広く実施されるようになってようやく英国は一息つくことが出来た。


ユトランドでの駆逐艦の被害などもあって駆逐艦の数がやや足りなかったこともあり、いまだ少なからぬ被害を出して
はいたものの、それでも間違いなく一息ついたのだ。




今次大戦における英国の敗北はこの瞬間無くなったと言えるのかもしれない。


だがそれでも大戦は続く。




独逸は海での無制限潜水艦作戦と同時に、陸上戦においても攻勢に出た。


強固な「ジーク・フリード」を出ての攻勢には内部に強い反対もあったが、国内での厭戦ムードを考えるとこれ以上大戦
を長引かせるのは良策とは言えなかった。


海軍が英国を落とさんとする、陸軍はフランスを。


そんな対抗意識も存在していたのかもしれない。



数の面で連合国を上回っていたことが、陸軍を強気な作戦に撃って出させた大きな一因であろう。



だが、独逸にはそれを上回る大きな制限があったのだ。






この欧州大戦にいまだ参加していない、ある国。


独逸がこれまで無制限潜水艦作戦に撃って出なかったのは、ひとえにこの国の参戦を恐れたため。


無制限潜水艦作戦を実行に移した以上、いまやその国の参戦は誰の目にも明らかであった。



そして世界情勢はその通りに動いた。




1918年4月18日。


独逸が無制限潜水艦作戦を実施して1ヶ月あまりの後、ついにその国は動いた。



米国参戦である。



独逸としては、このことは充分予測可能なことであったため、さして驚きを見せなかったが、ただ1つ。


米軍が本格的に軍を大陸に送り込んでくるまでに決着をつけなければ勝利は失われる、そのことだけは確かとなった。



独逸は連合国との戦いに加え、時間との戦いを強いられることとなったのだ。






そこまでの危険がわかっていて、なぜ無制限潜水艦作戦を行なったのか。


後世の歴史家にはそう批判する者がいる。



それを理解するには独逸の地理的立場を把握しなくてはならない。


すなわち独逸はパリを占拠することは可能であるが、ロンドンを占領することは不可能であるということだ。



お互いに莫大な戦費と人的損失を伴ったこの大戦に講和は存在しない。



そして、独逸がこの大戦を勝利で終るための方法はたった一つ。


英国の屈服以外に存在しないのだ。



陸上戦力での占領は叶わず、水上艦隊で劣る独逸が英国を屈服させることが出来る方法。


それが無制限潜水艦作戦による物資の補給を絶つことであった。



これは独逸がいつかは行なわなければならなかった作戦なのだ。


独逸軍令部は陸上での優位が明らかになったこの時期こそ、作戦を実施する時だと判断したに過ぎない。





しかし、米国の動きは独逸が想像するよりも早かった。



前年、いや一昨年より続いていた米独間の関係の悪化に加え、ロシア革命に対する満洲、及びシベリア出兵を睨んで
準備していたためである。



当時、米国や英国といった諸国はロシア革命の余波により、近隣国に共産化の波が及ぶことを警戒していた。


万が一共産革命が広がり、自分達の足元まで及ぶのを恐れたのだ。



ソ連西方は独逸という大国が存在しており、心配はなかった。


というよりも大戦の最中では心配のしようもなかった。




そのため、各国の注意は自然と東方へと注がれた。




このときソ連の東方に存在していた国、それは中国と大韓王国である。


この両国のうち、英米にとって特に問題であったのは大韓王国であった。



日露戦争の結果、日露の影響力が取り払われた大韓王国には英米の進出が著しく、既に経済面、政治面に渡って大
きな影響力を及ぼすまでに至っていた。


それに加え、大韓王国の地理的位置は英米には非常に魅力的なものだった。


大市場中国をすぐ近くに見、ソ連の南下を防ぐ。


そして「エンペラーズ・ガーデン(天皇の庭)」と呼ばれるほど日本海軍の勢力が強かった日本海における日本の支配を
脅かすことが出来る。



故に、大韓王国まで共産革命の波が広がるのを何としても防がなくてはならなかった。



そこで英米(英は大戦中で余裕が無いため実質的には米)は、ソ連内部で依然として残っていた帝政派(白ロシア)へ
の支援を行なっていた。


さらに、情勢の急変でソ連内部に取り残される形となっていたチェコ軍を救出するという名目で満洲、及びシベリアへの
出兵まで考えていたのだ。


しかし大戦中、しかも膠着から苦戦へと転じかけている英国にそのような余裕はなく、出兵はほぼ米軍単独で行なわれ
る予定となっていた。




この計画には、日本からソ連を通って独逸へ流れる物資を絶とうという狙いもあったかもしれない。





共産革命に対するこの過剰とも思える反応を見せる英米に比べ、日本はさほどの反応は見せていなかった。




大陸への再進出を望む陸軍強硬派からは、ソ連の混乱に乗じて満洲へ出兵し、何かしらの権益を確保しようという声
が当然のように上がった。


しかし大韓王国で英米が権益を誇っている以上、満洲に権益を持ったところで有効には活用し切れない。



またソ連のお陰、正確にはブレストリトウスク講和条約のおかげで独逸との商売が順調に行っている今、あえてソ連と
揉める気は日本政府にはさらさらなかった。



共産革命の余波に関しては、間にある大韓王国、すなわち英米が勝手に防いでくれるだろうという打算も働いている。


この辺り、当時の日本国総理、原敬の冷静な舵取りが発揮されていたと言えるだろう。



例え米英が独逸への物資の妨害に動いたとしても、その気になれば広大な中ソ国境を越えて物資を流せばよい。


その全てを封じるには中ソ国境を全て封鎖しなくてはならず、米国には中国と事を構える気まではさすがに無かった。




結局、米国の満洲、シベリア出兵計画は参戦により大きく遅れることになった。



しかし、いくら想像以上に米国の戦争準備整っていたとはいえ、独逸に全く時間が無かったというわけではない。


まとまった数の軍を送るには、やはり大西洋は広かった。




その間隙を縫った独逸の大攻勢は西部戦線全体に及んだ。


数で劣り、戦線の広大さから戦車の集中運用にも失敗した連合国側は各戦線を大きく突破された。



中央部にて独逸がパリ前面へと迫ると、連合国側はパリ防衛のために戦力の終結を余儀なくされ、戦力を抜かれた他
の戦線が突破されるという悪循環に陥る。


北部では、海岸線のカレー、ブーローニュこそ英国海軍まで総動員して防衛を果たしていたものの、少し内陸に入ると
独逸に大きく陣地を稼がれ、セーヌ川岸にあるルアンまで攻め込まれた。


さらに南部では開戦以来死守していたヴェルダンが抜かれ、独逸の弱体部であったはずの南部戦線でアルゴンヌ森
林、サン・ゴン沼沢地をその防衛線とすることを許してしまうなど、連合国の危機は日ごとに増していった。





ここで一旦視線を海へと向ける。


この時期海岸線の防衛に働きを見せていた英海軍に対し、独大海艦隊は大きな動きを見せていなかった。



英艦隊がロイヤルサブリン級戦艦が順次竣工させていたのに対し、独大海艦隊もバイエルン級戦艦を竣工させていた
ため戦力差そのものは以前と大して変わってはいない。


にも関わらず独大海艦隊が動かなかったのは、ソ連を通して物資の補給が可能となったため、無理に優勢な英艦隊に
挑む必要がなくなったためである。


それならば艦隊を保全することで、英艦隊に圧力を加えようという考え方、フリートビーング(艦隊保全主義)が独逸海
軍の主流となっていたのだ。


そのため、この時期の独逸海軍は潜水艦のみが活発に活動し、英護衛艦隊と熾烈を極める戦いを繰り広げていた。






1918年6月になると、米国から艦隊と共に兵士が到着し始めた。


米艦隊に来着により、英国は護衛に当てる駆逐艦の数を充分に確保出来るようになり、独潜水艦との戦いを比較的優
位に進められるようになる。


結果、米国の本格参戦と合わせ、連合国の物資不足は概ね解消するに至った。





しかし、いくら物資が不足しない程度に行き渡るようになったとはいえ、陸上での戦いはなかなか好転する兆しを見せな
かった。


いかに米陸軍が到着したとは言えその数は依然少なく、また戦線に投入出来るまように戦力化することは出来ずにい
た。


英仏軍との兼ね合いも考えれば、戦線へ本格的に投入されるのは数ヶ月の時を有したのだ。











「攻めろ!パリを落とせばこの戦いは終るんだ!!」



「守れ!何としてもパリを守るのだ!パリを落とされるわけにはいかないんだ!!」



6月の半ば、独逸軍はとうとうパリを包囲するに至った。


同時に、戦いは一気に、特にパリ周辺にて激しさを増した。




なんとしてもパリを防衛したい連合国(特にフランス)はパリ防衛のために戦力を各地から無理矢理集め、パリを包囲し
ている独逸軍に対して半ば強引とも思える攻撃を繰り返した。


しかし準備不足、そして相手が完全に予測している状態での攻撃は連合国側に多くの出血を強いるのみであった。



だが、連合国からすれば一連の攻撃目的はパリ包囲を解く事ではなかった。


攻撃によって生じた隙の物資搬入や、パリを本格的に攻める余裕を与えない連続した攻撃により、独逸軍にパリを攻
める余裕を与えないこと。


戦力の足りない連合国が取れる唯一の戦い方であった。



そして、連合国の狙いは一応の成功を収める。


多くの血を流し、様々な物資を浪費した一連の戦いの結果、パリはフランスの首都であり続けたのだ。





10月に入り合衆国軍がまとまった数に達して戦力化されたこと、アジアからの植民地軍が続々と到着したことで連合
国側は再び数の面で独逸を上回った。



米国の参戦により事実上日本の参戦が無くなったことで、アジアの軍をようやく欧州戦線へと投入できるようになったの
だ。




しかし、その戦力とてパリ防衛のための無謀な攻撃の数々に次々と失われていった。





年も明け1919年3月に入り、連合軍はようやくパリ防衛に目処を着け、戦力の蓄積に入ることが可能になっていた。


前年よりの連合国の無謀とも思える攻撃は、独逸軍に対しても少なからぬ損害を強いたのだ。




そして6月、連合国側が新規戦力の投入で大規模なパリ方面での攻勢に出ようとすると、独逸参謀総長ルーデンドル
フは占領地に拘ることなく撤退を命じた。


パリに依然敵を抱える以上、パリ周辺で戦うのは得ではないという冷静な判断であった。



そして、ルーデンドルフの命令を受けた独逸軍は、実に見事な後退を見せた。


連合国に全く気付かせることなく順次後退し、「ジーク・フリード」内部までの後退が完了した頃、ようやく連合国はこれ
に気付き、攻勢の準備が無駄になったことを知ったのである。



このとき、恨み募るフランス軍を始めとする少なからぬ数の兵士が調子に乗って「ジーク・フリード」に突撃を掛けたが、
「ジーク・フリード」はこの数ヶ月でさらに強固となっており、手痛い反撃を浴びることとなった。



そしてこれからおよそ3ヶ月の間、戦線は不気味な静けさを取り戻した。





一連のパリ近辺での戦闘で150万を超えると言われる死傷者を出した連合国軍は、戦力の回復を余儀なくされ、同時
に「ジーク・フリード」を抜くための大量の物資が備蓄され始めた。





一方のドイツ側も機を窺っていた。



連合国側に大きな痛手を負わせたとは言えパリ陥落に失敗し、合衆国軍の到来前に戦争を終わらせると言う作戦は
失敗に終わった。


この時点で独逸の勝利は消滅し、あとはいかに有利な条件で講和するかという点のみに独逸の狙いは絞られた。


そのためには、連合国軍にさらなる大打撃を与えなければならず、いずれに迫る連合国軍の攻勢に備えていたのだ。





そんな戦線での静けさを変わりに受け持つかのように、この頃の日本政府の動きは格段に活発さを増していた。



既に独逸に勝利の芽が無いのは誰の目にも明らかであった。


有力な友好国である独逸の凋落は日本としても望むところではなく、米国の参戦によりさらに増した貿易に励む一方で
講和への働きかけを今まで以上に積極的に行うようになっていた。



専らその交渉相手にされたのは米国であった。



ウィルソン大統領の14か条の宣言などから見て、最も講和に乗ってくると考えられたのである。




だが結局これらの交渉は失敗に終る。


ルタニア号事件など、民間船が独逸潜水艦に何隻も沈められていた米国民の独逸に対する敵愾心は想像以上に大き
かったのだ。




さらに英仏など他の連合国も独日の提案した講和、独は現在の戦線での休戦、日本は開戦前の国境線での相互賠償
無し、を頑として拒んだ。


既に莫大な戦費を使い、国家財政が底を尽きかけている状況では、独逸から賠償金を取らなくては回復もままならな
いのだ。


逆に連合国側は日本に対し、独逸への物資の輸出を止めるよう恫喝を交えて迫ったが、日本政府は冷静な判断の上
で黙殺した。




連合国側からすれば、日本から独逸への物資の流れを止めるために、日本への輸出を止めたい。


しかし、皮肉なことに現在米を除く連合各国の財政を支えているのが日本への輸出なのだ。



ようやく始まった連合国に対する米国からの資金援助も、戦費の全てを賄う事など出来るはずも無く、戦争を続けて行
くには中立国との貿易で外貨を稼ぎ出す以外に無かった。


そしてこの時期、中立国で最も多くの物資を輸入していたのが日本なのである。




正確に言えば、独逸、中国、そしてソ連に大量の輸出を行なう日本である。





この時期の日本の貿易額は日本政府をして予想外と言わしめるほどの額に上っていた。



ソ連経由で本格的に行う事が出来るようになった独逸、袁世凱の死後軍備拡張をそれぞれに進めている中国の各軍
閥、欧州各国が軍備に精一杯となっているために空いた植民地での市場、アメリカの参戦により米国への民需物資、
そしてソ連。



貿易相手には全くもって困る事はなかった。



それどころか、海軍工廠まで使って製造している輸送船が足りないという嬉しい悲鳴を上げるほどであった。


この長く続いている戦争特需によって、日本海軍の大増強が行なわれていたのだが、それはまた別の時に記す。




大規模な輸出に伴う大規模な輸入。


それが現在の英仏を中心とする米をのぞく連合国の財政を支えている一面は隠しようもない。



そのため彼らか戦争を早く終らせるためにも日本への輸出を止めたい反面、戦争を続けるために輸出を続けるという
ジレンマに悩まされていたのだ。



そしてこの頃、英仏等の財政はまさに破綻の一歩手前。



戦争がいつまで続くか分からない以上、日本への物資輸出停止をする措置を取る事が出来なかった。




結局のところ、日本は独逸に対する輸出を続けた。


そして、そのことが連合国との関係の悪化を招いたのは、自明の理であった。



それが表面化するのは、もうしばらく後のことである。






1919年9月、連合国は満を持して「ジーク・フリード」への攻勢を開始した。



依然として高い戦力を維持していた独逸は「ジーク・フリード」に籠り、この攻勢によく耐えた。



このことは、戦車の集中運用をすれば「ジーク・フリード」は簡単に突破出来ると楽観していた連合国首脳陣を慌てさせ
た。


それでも他に「ジーク・フリード」を突破するアイデアは出ず、似たような作戦が繰り返し行なわれ連合国に大きな損害
を生んだ。




だが、独逸の、いや同盟国の限界はそれ以上に早かった。



この頃オーストリアやハンガリーといった独逸以外の同盟側諸国は戦闘意欲を失っていた。


当面の目標であった東方で戦果を上げた以上、彼らは既に戦う理由を失っていたのだ。


そこで彼らは連合国に対し、休戦を申し込むなどの行動に移っていた。



独逸は実質的にただ一国での戦いを強いられていたのだ。




そして、「ジーク・フリード」を巡るこの戦いはやはり戦車の数が勝敗をわけた。



二ヶ月に渡る攻防の末に、「ジーク・フリード」の一角が破られると、ドイツ軍の崩壊は思いのほか早かった。


撤退を開始した独逸軍に依然の精強さは見られず、「ジーク・フリード」の後方に作られていた第二次防衛線において
も連合国の突破を許した。




独逸の崩壊は一気に進む。




12月13日、最後の決戦を求めて全力出撃を行なおうとした独大海艦隊の決定に反対した水兵がキールで反乱を起
こした。


この反乱は厭戦気分が漂っていた独逸国内にたちまちのうちに広がりを見せた。


そして、独逸軍令部はこの反乱を押える術を見い出せなかった。



僅か一週間後の12月20日、独逸皇帝ウィルヘルム2世はオランダに亡命し、帝政は崩壊。


まるでロシア革命が再現されたかのような、呆気ない帝政崩壊であった。




帝政崩壊の翌日、独逸は連合国に降伏。




足掛け6年にも及び、総力戦というものを知らしめた世界大戦は意外なほどに呆気なくその幕を閉じた。





この戦争で欧州のほぼ全域が興廃した。


戦争の爪痕は大きく、世界に君臨し続けた大きな陰を落とした。




この戦争で残ったと言える物は僅かに2つ。


帝政の無くなった独逸と、共産化したソ連だけであった。


















〜〜〜〜〜〜〜後書き〜〜〜〜〜〜〜


今回は比較的早かったやまとで御座います。



ようやく第一次も終わり、今後主要人物となる人々を出せる年代も近づいてきました。



ここまで、地味な、本当に地味な書き方を我慢してくださった方、本当にありがとう御座います。



もうすぐ、もうすぐ小説らしくなります!(多分)


というか、この書き方私も疲れます。



はやく第二次大戦に行きたい〜!




それではまた次回お会いしましょう!











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