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 千葉城模擬天守(亥鼻城・千葉県千葉市中央区亥鼻一丁目)

 

 千葉県にある千葉城で、昭和42年と古くから建っているので、ちゃんとした由来のある天守なのかと思ってしまうのだが、そんなものではないということは、実際にここを訪れてみるとよく分かる。城跡の遺構とこの天守がアンバランスなのだ。地名を取って亥鼻城とも呼ばれるが、亥鼻城の歴史は古く、築城されてからすでに850年以上が経っている(昭和52年に築城850年記念をやっていたので)。以後戦国時代まで千葉氏の中心拠点だったが、後に本拠地を本佐倉城に移すとこの城は廃城になったかと考えられる。現在残っている遺構も室町中期くらいのものなのだが、建てられた天守は小田原城によく似た江戸期の層塔式天守なので。天守内部は、郷土資料館・プラネタリウムとなっている。早くに公園化されたせいか、千葉市街地内という立地条件にしては、よく遺構が残されている方だろう。(以前の記述)






 さて、この千葉城に関しては、この数年でかなりその位置付けが変化してきたといっていい。というわけで、今回、内容を全面的に書き換えることにした。(「図説房総の城郭」の記述を参考にして書いています)
 千葉城に関する以前の常識を整理してみると、こういうことになる。
1.千葉城は千葉一族の本城であった。
2.千葉一族が康正元年、馬加康胤によって滅ぼされると、この城も廃城となり、以降は使用されなくなった。

 まず、このうちの1についてであるが、近年では、中世前期には、このような台地上の城はあまり築かれなかったといわれるようになり、千葉氏の館は、ここではなく、周辺の低地にあったのではないかと言われるようになってきている。この城が千葉城と呼ばれるのは、千葉氏の本城として用いられてきたものであるという常識(?)によってのことであるが、もし千葉氏の本拠がこの城ではなかったとしたら、この城を千葉城と呼ぶのも間違いで、文書にも出てくる亥鼻城こそが正しい名前なのではないかということになる。
 2点目に付いて。この城は、室町中期には廃城となり、それ以降は用いられなくなっていたと言われてきたが、外郭分をも持つこの壮大な城郭は、戦国時代の築造になるものであり、戦国期に拠点的な城郭足るべく築かれたものではないかという。「房総の城郭」では、原氏が築いたのではないかといっている。
 このように、千葉城は実は千葉城ではなく、ただの亥鼻城であり、しかも戦国期まで拡張されて用いられてきた城であるというのである。以前の常識は、まったく覆されたといっていい。
 
 さて、これらの点について次に私が思う所をまとめてみよう。
1.千葉氏は本当に亥鼻城を居城としてはいなかったのだろうか?
 千葉氏の本拠は「千学集抜粋」では単に「堀内」と示しているだけであるという。「堀ノ内」となれば、やはりこれは台地上の城ではなく、平地の居館であったろう。つまりもともとの千葉氏の本拠は、亥鼻周辺のどこかの低地にあったということになる。しかし、防御上の理由から、ある時から亥鼻台をも詰めの場所として使用したということは考えられないだろうか。そもそも、防御のために台地に陣取ったり、堀を穿ったりするというのは根源的な発想であり、戦国期にならなければ、そういう城郭が出現しないと考えてしまうのは固定的な見方に過ぎる。だいたい、台地の上にあり、しかも堀をめぐらせた集落は弥生時代の遺跡からも散見される。千葉氏の館にしても、もともとは平地の単なる居館であったものだったとしても、南北朝の騒乱、上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦、享徳の大乱などと戦乱うち続く時代に入れば、危機意識が生じてくるのは当然であり、その場合に、背後の亥鼻台に砦を築こうと発想するのも自然なことであると思う。それゆえ、享徳の大乱で馬加氏らに攻められたときには、すでに亥鼻台に詰めの城として何らかの防御施設を千葉氏が備えていたとするのは、十分にありうる話であると思う。
 発掘の結果からは千葉氏に関連するような立派な遺物は出ていないということであるが、詰めの城であるとしたら、それはある程度仕方のないことであろう。ここにも千葉氏によるなんらかの施設が存在したと思う。

2.亥鼻城の規模はどの程度のものだったのか?
 これについても疑問は多い。現在、亥鼻城の城域はかなり広かったとされ、上の図面の2つの外郭分をも取り込んだ大城郭であったとされる。外郭部Uの千葉大学医学部付属病院の東側に大手があったとされ、この辺りにある七天王塚なども城域内にあったという。(この塚が土塁であったとも) また、この辺りには堀もあったらしい。この辺りまでをも城域として捉えると、確かにかなりの大城郭となる。「房総の城郭」では、高品城と並んで、千葉の町を防備するために原氏が築いたものではないかといっている。
 外郭部は市街化のためにすっかり破壊されているので、遺構から城域全体を想像することはできない。現在残る先端部の遺構からは、どのようなことが考えられるであろうか。まず、第一に気付くことは、先端部の規模はとても小さく、遺構もたいして大きなものではないということだ。地形から考えて、この先端部に残る部分が亥鼻城の中心的な部分であったと思われるのであるが、この規模からすると、たいそうな規模の城郭などではなく、先端部だけを利用した砦、としか思えない。先端部近くは周囲の土手も、それほど厳しい切岸状にはなっていない。また、土手の高さも、5,6mほどと、さほど戦闘的なものではない。郭そのものも小さなものである。つまり、現在残る先端の遺構からは、この城郭がさらに巨大な外郭部を持つ大城郭とは想像できないのである。これはどうしたことだろうか。先端部分はもともと千葉氏の詰めの城としての小規模な砦があっただけで、本当の亥鼻城の中心部は、先端以外のもっと別の所にあったものだろうか。
 現在残る遺構から想像する亥鼻城は、それほどのものであったとは思われない。しかし、これだけの外郭部を実際持っていたとしたら、やはり、これは戦国期末まで用いられた城というべきである。先端部の戦国期末とは思われない遺構との矛盾はどう考えたら解決することができるのであろうか。
 想像でしかいえないのだが、亥鼻城は戦国末期まで用いられてはいたが、それほど戦略上重要視された城ではなかったのではないだろうか。亥鼻城の3km南方には生実城がある。この城は周辺に多くの支城群を持った、原氏の城の中でも臼井城に次ぐ重要な拠点であった。この城には多くの兵が駐屯していたであろうと思われ、わずか3kmしか離れていない、亥鼻城にもさらに大軍を駐屯させるというのは、原氏の勢力をもってしても、少し厳しいのではないかと思う。だから、亥鼻城は、大軍を駐屯させるための拠点的な大城郭としてではなく、単に千葉の町を守るための砦として活用されたものであったのではないだろうか。この外郭部は、軍が起こったときに町民たちを避難させるためのものであったかもしれない。つまり外郭部は「村人曲輪」というか、「町人曲輪」といったものであったかもしれない。(村人と城の距離について参照) そういう位置付けの城であったため、広大な外郭部を持ちながらも、さほど堅固な構造を持っていないのである、と考えると先ほどの矛盾が解きほぐれてしていくような気がするのであるが、あくまでもこれはまったくの思いつきに過ぎない。本来立派な遺構を持つ大城郭が、都市化の波に押されて、現在のようなしょぼくれたものになってしまった、ということも考えられる。どちらが正しいのか、残念ながら、今の所、決め手となる材料を持ってはいない。





 V郭の郷土博物館脇(南側)に残る土塁。しかし、高さの割りに幅が大きかったりと、戦国期の土塁にしては、形状に難がある。上部を削りとられたか、あるいはもともと後世の所産であるのかもしれない。

















 U郭虎口の右側の土塁。上部にはまとまった広さがあり、櫓台と言うべきであるかもしれない。














 先端のT郭にある神明社。この郭は非常に狭く、物見台を置いた程度のものであったかもしれない。
















 T郭登り口の脇にこの亥鼻城跡の石碑が建っている。














 T郭とU郭との間の堀切の部分からU郭虎口を見たところ。しかし、全体的に斜面も緩やかで、高さもそれほどなく、戦闘的な感じはしない。
















 U郭東南部に残る土塁。はっきりとした土壇となっているが、堀が見あたらない。埋められてしまったものであろう。















千葉館(千葉市中央区中央4丁目)

 源頼朝に仕えて出世した千葉常胤の居館は現在の千葉城(亥鼻城)であったのか。上記の通り、近年になってこのことに対して疑問の声が上がるようになった。というのも、室町中期くらいになるまで、城のような居館が築かれることがあまりなかったのではないかと考えられるようになったからである。(必ずしもそうとはいえないと思うが) 中世前期の武士の館は、堀の内と呼ばれる、堀に囲まれた平坦地の小規模な居館に過ぎなかったのではないかというのである。したがって千葉氏の館も、千葉城のような「城」ではなく、現在の市街地のどこかに埋もれてしまっている可能性がある。中央4丁目に千葉地方裁判所があるが、ここはかつて「御殿跡」と呼ばれて、堀と土塁に囲まれた方100mほどの居館の跡があったという。ここが千葉氏の館であった可能性もあるが、「御殿跡」という名称は中世の居館を意味するものではないだろう。そこは「御茶屋御殿」や「東金御殿」と共通するものであると思う。だが、この辺りのどこかに「堀ノ内」あるいは「タテ」と呼ばれる千葉氏の居館があったことは間違いないだろう。都市化が進む現在の町並みからは想像することもできないが・・・・・・。






矢作砦(千葉市矢作町) 

 千葉城の東のはずれ、千葉大学付属病院の北側の水源橋の辺りに矢作貝塚があるが、この辺りに千葉城の東の防備を果たす砦があったという。都川に望む微高地で、立地的にはそれらしい感じがするが、しかし、遺構などは残っていない。伝承のみで知られている砦であるという。(千葉市の遺跡を歩く会参照) すぐ脇まで亥鼻城の外郭部分が来ているので、大手口を、城外側から見張るための施設であったかもしれない。
 砦内は浄水場の施設となり、進入禁止となっている。そう書いてあっても、ちょっと中にお邪魔してみることもあるのだが、ここは金網が張られていて、本当に中に入ることができない。ということで、内部の様子はまったく分からない。先端の部分が櫓台のようにも見えるが、実際どうなっているのかは不明だ。













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